- 2005-04-08 (金) 0:54
- 1993年レポート
- 開催日時
- 平成5年7月22日(木) 14:00〜17:00
- 開催場所
- サントリー東京支社
- 参加者
- 古館、広野、塚田、徳永、西山、鈴木、佐藤、望月
討議内容
今回は、人類進化の上で果たす男と女の役割と題して討議を行った。この議題を論じるに当たり、まず始めに、人類の進化とは何かについて考えてみた。人類の進化を考えてみると、そこには、生物学的な進化と、科学技術が示すように、物質的な進化とがある。物質的な進化としては、食べたいものがいつでもどこでも食べられるという生物としての基本的欲求の充足や、大阪・東京間を日帰りできるような手段の発展など、人間の持っている能力を科学技術によって拡大してきていることがあげられる。これに対して、生物学的な進化としては、精神面での進化が考えられる。マズローの人間の基本的欲求の五段階説の是非はあろうが、五段階説を基本に考えてみるならば、最も基本的な生理的な欲求は社会的にみて充足されるような状況にあり、次第に高次の欲求である自己実現的な欲求充足へと世の中が動き始めているように思える。しかしながら、議論として、自己実現とは一体何であるのか、また、進化を自己実現と結び付けてしまうと、議論が無意味に陥ってしまう危険性があるという指摘もあって、これ以上進化について話し合うことをやめ、男と女の性差について話を進めた。
最もはっきりしている性差は、女性しか子供を生むことが出来ないということ、また、体格的な面から分かるように、男性の方が筋力たくましく力持ちであるということである。そして、この基本的な性差は、人類の最も基本的な営みである、食物を獲得すること、そして、家族あるいは集団を外敵から守るという必要性から、男性は外に働きかけ、女性は子供を育て、内に働くという社会構造を自然に生み出してきた。これらの役割分担は、必然性の高いものであり、それが基本になって、社会構造、文化、価値観などが出来上がってきた。その結果として、知的能力の進化と共に、男性はかくあるべし、女性はかくあるべしといった、価値観や、概念が自然に生まれ、それが社会の様々な分野において、男女の役割分担を益々はっきりと分けてきたものと考えられる。
男の沽券に係わるとか、大和男児はかくあるべしといったような価値観は、長い人類の歴史の中において自然に生まれてきたのであろう。そして、この価値観は、人間の持っている無限の能力からするならば、非常に狭い価値観ではあるけれども、その価値観に縛られて生きなければならないという苦しさの中から、生きることの意味を考え、悩み、そこに哲学や宗教的なものが生まれてきたのではないだろうか。歴史を見る限り、聖人といわれる人達や、哲学者の多くが男性に偏っているのは、哲学的な能力が、先天的に、男性により多く与えられているということよりもむしろ、上で述べたように、男性の方が、無限な可能性を秘めた能力をより強く矯正されていたことから、精神的反発が大きく、人生について考えなければならないような精神状態に追いつめられた結果とも考えられる。
このことは、女性ドライバーの多くにみられるような、敏捷牲に欠けた判断が、性差ということよりも、むしろ、社会との関わりから生まれてきた後天的なものであるということと同じように思える。社会との関わりの少ない女性の方が、他者との関わりの中から直感的に判断する訓練が自然と少なくなっているのであろう。哲学者や聖人と言われる人達が、男性の方に偏っているのは、マズローの欲求の五段階説に基づいて考えるならば、男性の方が、女性より、より社会的な世界の中で生活しており、他者との関わりの中で、他の人に認められたり、尊敬されたりしたいという高次な欲求が男性により多く芽生え、その結果として、さらに高次な自己実現的な欲求が、男性の方によりはっきりと現れてきた結果であると考えられる。
過去、自己実現を達成したと考えられる人達にほぼ共通している事柄は、社会の中において、かなりの地位や名誉を得た状況の中から、自己実現的生き方が芽生えてきているということを見てみると、哲学するというその動機付けは、社会の中において生きる中から生まれて来るように思える。
以上のことを考えて来ると、肉体的な性差というものは基本的にはっきりしたものが存在してはいるが、精神面あるいは、知的なレベルでみる限りは、性差というものは、社会構造によって後天的に作られてきたものであり、世の中が平和になり、社会的な価値観が、物から心へ移り行く状況の中にあっては、性差による能力差はほとんどなく、社会の中において女性が活躍する機会が益々増え、その結果として、女性が人生について考え、女性の中からも哲学者や、新しい思想を生み出す思想家が生まれて来ることは充分に予想できる。
ただ、現状では、現在の社会構造の中に、原始時代から形作られてきた社会構造の元型がまだ内包されており、そこには、後天的な性差が生じていることは否めない事実であろう。男性が論理的思考が得意であり、女性が情緒的、あるいは感性的な事柄に対しては得意であるといった現在の一般的傾向は、人類の歴史の中で生まれてきた後天的な能力ではあろうが、これらの性差を生かしていくところにバランスのとれた社会が生まれて来るように思える。従って、これからは、性差が益々減少して行く方向にはあるけれども、この時代を生きる状況においては、それぞれの持つ後天的に出来上がっている能力を生かしながら、新しい可能性を求めて生きて行くことが、人類の進化における男と女の役割であると考えられる。
これらの考えを基に、飛躍した考えをあえて言わせていただくならば、ユングが、アニマ・アニムスという言葉で定義付けているように、全ての人間の無意識の世界の中には、男性では女性的なものが、女性では男性的なものが秘められていて、人類の進化というものは、一人一人が、自分自身の中に内包されているアニマとアニムスに気付き、その二つを一人一人が自らの中でバランスよく発揮して行くところにあるように思える。このことは、今までの女性像、男性像というものを基本にして考えるならば、男性が女性化し、女性が男性化していくということでもある。そして、人類の進化における男と女の役割は、それぞれの無意識の世界にあるアニマとアニムスを互いに気付かせるために働いているように思える。もう少し具体的に表現するならば、左脳的思考の強い男性が、右脳的発想の強い女性に刺激され、新たに右脳を開発して行くことによって、自らの中にバランスのとれた脳が形成され、その結果として、社会の価値観や、構造が、人類の進化にとってより適したものへと変革されて行くことになるということである。
以上の議論の他に、何故結婚相手として男性は自分より年齢の低い女性を求めるのかという問題提起もあったが、これに対する明確なる結論は得られなかった。ただ、この曖昧とした現象の中には、今まで述べてきたような性差は後天的なものであるという意識の世界でつかまえることの出来る結論とは別に、感性的な世界でしか感ずることの出来ない本質的な性差が存在しているようにも思える。
いずれにしても、以上のことをまとめてみると、進化とは各人の持っている秘められた可能性を広げて行くことであり、男と女の役割は、互いに、その可能性を昇華させるための触媒的な働きをなしているのかも知れない。
今回のテーマは、参加者の何人かの方々から、余り議論に適したテーマではないという意見があり、また、これ以上討議しても、深まる問題でもなさそうなので、今回限りで終わることにした。
次回の打ち合せは9月14日(火)、「社会現象としての宗教の高まりについて」というテーマで議論することにした。
- 新しい記事: 第25回 「社会現象としての宗教の高まり」
- 古い記事: 第23回 「コミュニケーション」