- 2005-04-08 (金) 0:55
- 1993年レポート
- 開催日時
- 平成5年9月14日(火) 14:00〜17:00
- 開催場所
- サントリー東京支社
- 参加者
- 古館、広野、西山、土岐川、鈴木、望月
討議内容
今回は、社会現象としての宗教の高まりについてというテーマで議論した。この議論にはいる前に、本当に社会現象として、宗教が高まってきているのかについて、日経新聞の宗教に係わる過去10年間の記事件数の変化を調べてみた。1980年には50件であったものが、1990年には約400件と、この10年間でほぼ10倍になっており、年々増加していく傾向にある。また、鈴木さんが、国際日本文化センターと共同で開催している「密教」についての講義にも、年々参加する人が増えてきているとのこと。これらのことからしても、宗教が何等かな形で、人々の関心事となっているという社会現象の一端がうかがえよう。
それでは何故、いま宗教への関心がこのように高まってきているのであろうか。一つの要因としては、社会全体が、個人の行動や考え方に対して、自由を認める風潮が高くなってきたことがあげられよう。従来の軍国主義的な権威や権限の支配下で人々が行動を抑圧されるという状態ではなく、何をやっても許される個人の自由を尊ぶ社会環境になってきた。そのため、長期的にみたときには、何をやっていいのか、何を生きる目的として生きていったらいいのかが自分自身で見いだせなくなってきており、その曖昧とした心の悩みを、宗教に求めようとしてきていることが考えられる。
これに係わる記事として、ある新興宗教に入ったOLの言葉が紹介されていた。そのOLは、短大を出てすぐ金融械関に就職した。「始めは面白かったけれど、仕事を覚えてしまうと毎日が同じことの繰り返し、朝会社へ行き、友人と食事をして家に帰り、おふろに入って寝る‥‥。それはそれで楽しいけれど、何のために生きているのか分からず、とても物足りなくて寂しかった。」このOLの言葉の中には、人間の持つ隠された欲求の満たされなさが表現されている。毎日が同じことの繰り返しである生活は、確かにこれといった悩みはないものの、そこには、人間の内に秘められた創造欲求が芽を出してきているように思える。何か新しいことを自分の中から生み出していくという創造性は、パスカルが「人間は考える葦である」と表現しているように、自由の身となった人間に残された最後の欲求なのかもしれない。その創造欲求を充足させようとする営みを、ある人は自己実現と表現し、ある人は生きがいと表現しているように思える。そしてこの創造欲求は、生理的な欲求と違い、具体的なものとして求められ得る欲求ではなく、自分の意志で自ら開拓していかなければ満たされないという能動的な欲求でもある。それが故に、自分の力で物事を創造的に考えるということの訓練がなされていない人達にとっては、糸の切れてしまった凧のように、生きる支えのない、頼りない心に支配されてしまうのである。仏陀が人間の苦悩としてあげた生老病死の中の生に係わる苦しみが、まさにこの糸の切れた凧の精神状態のように思える。従来、人が、宗教に入って行くきっかけとしては、老病死の苦しみから逃れることが多くあったように感じる。死と対面し、藁を掴む思いで神にすがる心は、具体的でだれしも理解でき得る宗教への歩み寄りであるが、現在のように、死を身近に感じることも少なく、生きることが当り前の様な感覚を生み出している社会環境にあっては、具体的に把握できない曖昧とした生の悩みから宗教を求める傾向が強くなっているのであろう。
ちょっと飛躍した考えかもしれないが、この創造欲求は、一人一人の脳の中に秘められている悟りによって生み出される新しい知恵への導きなのかもしれない。この知恵は、先にも述べたように、一人一人の能動的な営みから生まれて来るものであるが、多くの人は、それを宗教と言う名の基に、能動的な活動をやめてしまい、盲信してしまう。それは、麻薬とどこかしら似ているようにも思える。現在の新興宗教ブームの一つには、本来なら能動的な営みによって得られる新しい創造の世界を、受動的に得ようとする安易さが含まれているのかもしれない。それを人々に心の喜びを与えてくれる<場>との係わりから比喩的にみるならば、能動的に知恵を求めようとする場である寺に対して、与えられたものによって一時的に快さを得ることの出来るディズニーランドに対比できるかもしれない。
先の議論で話題となったコミュニケーションの問題にしても、コミュニケーションの欲求の一つの要因として、自分自身の中に秘められた知恵を開拓するもの(それを自分自身を高めると表現したが)があると結論づけたが、この欲求もまた、新しい知恵−それは仏陀の境地につながるものであろうが、−を求める欲求のように思える。そう考えてみると、近年の宗教ブームの要因の一つには、コミュニケーションの欠如ということも考えられよう。家族、職場といった身近な中での人間関係が希薄になっており、心を充足することの出来るコミュニケーションが欠けてきているのであろう。
また、よく日本人は、無宗教であるといわれたり、日本人自ら言ったりもしているが、それは、日本人が、お盆や彼岸にはお墓参りしたり、初詣をしたりということを生活の中で当り前のように行っているのにもかかわらず、宗教というものを、キリスト教で代表されるように、聖書を読んだり、日曜日毎に教会に行ったりするという具体的な行為であると思い込んでいるところがあるのであろう。日本人も、元々は、先祖を奉ったり、月や太陽に向かって祈りをしたり、お地蔵さんにお祈りをしたりというふうに、日常生活の中で、無意識の内に、信じる行為をしていたのである。それは、組織化された宗教ではないが、新興宗教がもたらすような心のよすがとなり得ていたのであろう。しかし、近年、科学技術の発達と共に、月にはアポロが着陸し、神聖さを月から奪ってしまったように、科学の発展が、自然の中に秘められた様々な神秘さに対する真摯な気持ちを奪ってしまってきた。また、核家族化に伴い、家庭の中から、仏壇や祈りの行為が消えていったりして、生身の人間が、無意識の世界を沈めるための何かを信じ祈るという行為が、日常生活の中で出来にくくなってきていることが、新興宗教の高まりのもう一つの要因のように思える。すなわち、昔の人達が、無意識の内に日常生活の中で行っていた宗教的儀式が、日常生活の中では出来にくい状況になり、その行為を新興宗教が肩代りしていると言えるのではなかろうか。近年のオカルトや、超能力ブームも、全てを理詰めで解決しようとする科学的思考に対するアンチテーゼのように思える。
また、一つの価値観として、学校や、本などを通して、知識的に学び得るものよりも、経験によって体得した知恵に根ざした事柄により価値を置くような状況になってきている。理屈を越えたものに価値を見いだしてきているところに、宗教との関わりがあるようにも思える。
価値観が多様化し、らしさを装うことが少なくなってきている社会傾向も宗教熱の高まりと関係がありそうだ。企業のような組織においても、上に立つ者が昔ほど権威がなくなってきており、そのことが、一人一人が、身分や地位といった虚飾の中で生きていくのではなく、裸の自分を見つめる中から、宗教的生活を求めるようになってきていることも、宗教の高まりに拍車をかけているのかもしれない。ある目的だけを遂行するために、盲目的に忙しく働き続けていた人達が、ふとしたことから、回りを見回したとき、絶対と思っていた目的よりも、もっと重要な何かを心に感じ、それが宗教的な生活に入る一つの動機となっているようだ。
宗教の高まりは、人間の価値観が、物から心へと変化してきていることと関わりがあるように思える。近年、ヒット商品としての物があまり生まれていないが、ソフト的なヒット商品としては、Jリーグ、恐竜ブーム、アウトドアブームなど様々なものが誕生している。これらは、工業化時代から情報化時代へと社会が変化していることと対応づけられ、これらの社会的なパラダイム変換が起こるときに宗教はブームとなって来るもののようだ。
人間は、元々、機械にはない感性の世界を持っている。美しいものを見て美しいと感じ、感激したり、悲しんだりしたときには、涙を流すといった、きわめて感性的な生き物である。しかし、社会が、あまりにも論理的で機械的に動いてきたために、感性の芽を充分に伸ばすことが出来なくなり、その不満足さが、心の渇きを生み出しているように思える。宗教の高まりは、こうした人間の中にある非論理的な心が、論理的思考に偏りすぎている現在社会に対しての抗議運動であるように思える。感性の世界は、感激的な世界でもあるが、新興宗教の魅力は、心の渇きを感じている人達が、教祖の法話や、同じ宗教を持つ人達の集まる場を通して、一人では得られない心の高揚を感じ、法悦に浸ることが出釆るところにありそうだ。
宗教の高まりと並行して、超能力、占い、オカルト、といった非論理の事柄に関心が高まってきているのも一つの社会現象である。これらの事柄にも焦点を当て、次回も宗教について議論することとした。
次回の打ち合わせを10月25日(月)とした。
- 新しい記事: 第26回 「社会現象としての宗教の高まり」
- 古い記事: 第24回 「人類進化の上で果たす男と女の役割」