- 2005-04-08 (金) 0:55
- 1993年レポート
- 開催日時
- 平成5年10月25日(月) 14:00〜17:00
- 開催場所
- サントリー東京支社
- 参加者
- 広野、徳永、塚田、土岐川、鈴木、菅沼、佐藤、望月
討議内容
今回から新たなメンバーとして、菅沼様が参加して下さいました。菅沼様は、現在フジテレビ商品研究所に勤務されていて、様々な商品についての評価研究をなさっています。学生時代には、バスケット部に属していたり、筝曲をなさったりされていて、現在は、陶芸を学んでいるとのこと。特に、陶芸を通して人生哲学なるものを知ったとか。多彩な趣味の中で培われた人生観を、この研究会で大いに語って戴きたいと思います。
今回も前回に引続き、社会現象としての宗教の高まりについてというテーマで議論した。社会現象としての宗教の高まりは、前回に検討したように、その原因として、いくつかのことが考えられるが、その大きな要因には、マスメディアがもたらしたファッション性が考えられないだろうか。確かに、人生を考え、様々な苦しさから開放されることを望んで宗教に入っていく人達もいるのであろうが、友達が入っているから私も入るといったようなファッション性もかなり影響しているのかも知れない。ただ、そのファッション性にしても、ミニスカートがはやったような一過性のものではなく、人間の本性としての宗教願望的な欲求と係わりがあるように思える。
宗教の働きがなんなのかは、はっきり分からないが、新興宗教の中に入っていった人達の中には、自分の悩みを真剣に考えてくれる人達がいることに感激するらしい。かつては、身近な人に悩みを打ち明け、相談にのってもらうことが出来ていたのであろうが、家族にしても、先生や友人にしても、表面的なコミュニケーションしか出来ず、こころをわって話のできる相手が少なくなってきているという社会構造が浮かび上がってくる。人間は本来、どこかで、自分の身についた様々な衣をときほどき、裸な自分を表現したいのであろが、知らず知らずのうちに、社会でも、家庭でも裸になれない人間になってきてしまっているのかもしれない。宗教的な事柄は、我々に、裸のままの自分に戻ることを教えているのであろうが、それが、日常生活ではなかなか出来ないというところに暗黙の苦しさがある。禅の本を読んでみると、とても簡単な行いではあるが、かっこよく感じるというのも、そんな所からきているのかも知れない。
我々が旅をする楽しみは、結局裸の自分になることに喜びを感じているのかも知れない。長電話の快感と同じように、裸の自分になることによって、自分の中に潜む本当の自分に触れているのであろう。
人々を悩ませる一つの要因として、情報過多がある。旅一つ取り上げても、様々なツアーがくまれていたり、同じ場所に行くにしても、電車、バス、飛行機など様々な手段がある。電車にしても、新幹線を例に取れば、のぞみがあり、ひかりがあり、こだまがありで、それらの運行間隔も分単位で、選択肢が多くなってきている。使う者の立場からすると、選択肢が多いのは結構なことであるが、余り多くなりすぎると、どれを使おうか迷ってしまう。これらの迷いを救うために様々な企業が生まれてくるが、占いもその一つの救う手だてなのであろう。当たるも八卦当たらぬも八卦ではあるが、多くの選択肢を前にして、決心しかねているときの占いは、暗黒の海の中での羅針盤のように有難いものなのであろう。
宗教と係わるかどうかは議論の余地があるが、気功ブームも、宗教ブームとどこかしら係わりがあるように思える。地球環境の問題が重要視されてきているが、それは、我々の生命が、我々の肉体だけに係わるものではなく、宇宙の全てと係わりを持っていることを、一般の人達が認識してきている現れであるが、気功もこれと同じように、我々の体が閉鎖的なものではなく、外界と深い係わりを持っていることと関係している。武道の中に、相手に直接触れることなく気で相手を倒す遠当てという技があるが、この技の名人の話によると、相手と対している中で、自分自身が、宇宙と一体となったと感じたとき、相手が自分の世界の中に含まれ、相手が攻めようとした途端、相手は自分自身を攻めるような状態になって自ら倒れてしまうのだという。人間自身の中には、理屈では推し量ることの出来ない能力が秘められていて、我々は、その能力を無意識のうちに感じ取っていて、気功や、超能力への興味となって現れてきているのかも知れない。
ユングが晩年、日本人的な表現をするなら「虫の知らせ」とでもいえる超能力的な事柄に関心を持ち、共時性と題して研究を行っていたが、この共時性も気との係わりがあるように思われる。我々の脳の中には、先天的、後天的に、様々な情報がインプットされていて、その中の特定な情報だけを誘起させるように気が働いているのかも知れない。画像通信技術の一つとして、画像の中で、背景のように静止している画像は、予め受信例の記憶装置の中に蓄積しでおいて、実際の通信には動きの部分だけを送ることによって、あたかも全体の画像情報が送られてきているかのような働きをする知的符号化技術というのがあるが、人間は、元々気によって、この知的符号化を行っているのかも知れない。禅の極意は、不立文字といわれていて、言葉を用いなくて語り合うことだそうであるが、これなども、人間の知的符号化能力であり、日本人は、この能力が元々西欧の人々に比較して高かったのではないだろうか。この知的符号化能力は、個を個として見ずに、全体の中の一員とする宗教的な思考とどこか相通ずるところがあったために、日本人は元々日常生活の中で、宗教的な事柄を体得していたように思われる。しかし、その日本人も、次第に西欧化され、直接目に見えるものや、具体的にイメージできる目的的な思考になり、その陰に潜む隠されたもの事を次第に見失ってきているように思われる。自分自身の中にある知的符号化能力の退化が、宗教ブームの一つの要因であるとは考えられないだろうか。
立花隆の「宇宙からの帰還」という本の中で紹介されているが、多くの宇宙飛行士が、宇宙から帰還後、宇宙飛行士としての一線から離れ、牧師さんになったり、宗教と係わる仕事に従事するようになっているという。人格神としてキリスト的なイメージを抱いていた人達が、宇宙と一体となったとき、直感的に感得した宗教性と、自分自身のイメージしていた宗教とのギャップの大きさに触発されたのであろう。元々自然と一体的な生活をしてきた日本人が、宇宙に行ったとしても、彼らほどドラスティックには、宗教性に開眼しないのではなかろうかというのが参加者の大半の意見であった。
次回の打ち合せは忘年会を兼ね12月1日(水)とした。テーマについては検討中ですが、宗教をさらに追求してみてはという意見もありましたので、宗教についてと仮に題しておきましょう。
- 新しい記事: 第27回 「宗教」
- 古い記事: 第25回 「社会現象としての宗教の高まり」