- 2005-04-08 (金) 0:57
- 1995年レポート
- 開催日時
- 平成7年4月25日(火) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、土岐川、竹内、中瀬、奥田、鈴木(ヒ)、田中、牧田、山田(雅)、
佐藤、望月
討議内容
今回から新しいメンバーとして、山田雅志様が参加して下さいました。山田様は、KDDの子会社であるKDDクリエイティブに勤務されており、主として、本や雑誌の出版・編集を担当されています。約20年間出版の分野を点々と歩いてこられたそうです。趣味は映画鑑賞で、最近は少なくなくなったそうですがそれでも年間50本ほど見ているそうです。若い頃から宗教に関心を持ち、様々な宗教に接しながら、宗教の真髄を求めておられるそうです。職種がら、色々な分野の著名な方々に接してこられたそうで、これらの経験を元に、人間文化研究会の中で、新しい観点から意見を発展されることを期待しています。
今回は「愛」をテーマに議論した。愛には、夫婦の愛、親子の愛、兄弟愛、恋人同志の愛、友人愛、人類愛、地球愛、自然愛、愛国など様々な愛がある。これらの愛は、人間同志の中から生まれてくるものと、人間と物も含めた自然との係わりで生まれてくるものとがある。人間同志の中で生まれる愛には、一対一の係わりの中で生まれてくる愛と、一対多数の中で生まれてくるものとがある。これら様々な愛の中から、先ずは、一対一の異性間の愛について考えてみた。
私達が、異性に対して持つ愛とは一体如何なるものであろうか。この愛の心が生まれる源には、どこかしら自身の好みとの係わりがありそうだ。私達は、美人(美男)と好きなタイプとは自ずから区別しているように思える。美人(美男)であるという判断は、多くの人の共鳴を得るもので、あり、そこには最大公約数的な結果がある。これに対して、好きか嫌いかということに関しては、人によって様々なタイプがある。美人という判断には、形態からくる平面的な美的感覚が主体となるのに対して、好きか嫌いかという判断においては、その形態を生み出している元となっている心の存在が関与した立体的情報が重要な働きをしている。そして、自身の無意識の世界を支配している心模様と共鳴する心模様をその形態の中に読み取っているのではないだろうか。例えば、写真を見て、美人としての判断をする場合、形態という空間的要素だけしかないのに対して、好きか嫌いかという判断の中には、写真という平面の中に、その人の性格などプロセスで生まれてくる情報を読み取っているように思える。そして、このプロセスの中で生まれてくる情報こそ、自身の中に潜む生命と密接な係わりを持っているのではないだろうか。話はそれてしまうが、葛飾北斎の措いた、富嶽三十六景の中にある、波間からみる富士の絵は、波頭に舞う水の泡の様子が、写真で撮ったかのように描かれているが、そこには、絵画という平面の中に、時間の流れを感じさせるプロセスが描き出されているように思える。そして、平面の中に、時間の動きを感じさせることが出来るところに、静止画が、生命を帯びたものとして動きを感じさせているのではないだろうか。芸術に関する専門家ではないが、生命というのは、どこかしらその中に動きを感じさせるものが潜んでいるように思える。そういう意味から考えてくると、異性を好きになるというのは、異性の身体全体から溢れてくる生命の営みを直感的に感じ取り、その営みに共鳴しているのではないだろうか。そして、愛とは、その生命を何等かな形で、感じあうところにあるように思える。
人を好きになることは、自分自身が裸になることであるという。そこには、人為的に作られた価値観が働く余地はなく、自身の内奥に潜む何かを開放させてくれる働きがある。そして、自身が裸になることによって、相手を許容できる心が広がってくるのであろう。その心は、愛への道ではあるが、間違うと、愛欲と表現され、憎しみに変わる我欲が働き始める要素も合わせて持っている。仏教が愛を戒めているのは、愛する心を秘めながら、それが、我がままと係わる愛欲に陥ってしまうことにあろう。異性を愛する愛は、どこかしら、我欲的な愛が同居しているように思える。そして、愛のこの二面性は、親子の愛にも見られる。寒い夜、眠る子供を抱きしめ、自身の寒さに耐えながらも、子供には暖かさを感じさせようとする親の心は、まさに崇高なる愛であるが、子供を、白身の我欲のために思い入れ始めると、そこには、愛欲的なものがちらつき始める。いじめ、登校拒否といった子供達にみられる心無い動きの一つの要素には、子供達が、親や友達や先生の中に、崇高なる愛を感じることが出来なくなってきていることを無意識に感じていることなのではないだろうか。
キリスト教で表現されている愛は、一対一の愛はもちろん、一対多数の間にも生まれてくる人類愛的なものである。そこでは、愛というのは、思いやりとか、慈しみとかいった言葉によって表現される心と共鳴するものがある。愛は、働きかけられ、働きかけるものであり、愛を感じる感性と、愛を表現することの出来る技術が必要なのかも知れない。仏教の言葉に「和顔愛語」という言葉があるが、和やかな表情は、人を愛する心から生まれ、人の心を勇気づけ生きる力を生み出すことの出来る言葉は愛語となって、受けるものの心に働きかける。愛という目には見えないけれども確かに感じることの出来る心の世界は、愛を発するものと愛を受け取る者との心の共鳴によって、さらに高い心を生み出している一つの場であるのかも知れない。木の病を治療する樹医という職業があるが、達人的な樹医さんは、木に触れるだけで、木の病気が分かるという。木が語りかけている悩みを感じ取ることの出来る心が湧視されているのであろう。その心は、治療するという行為を生み出す。その治療によって、木が再び生命力を取り戻すとき、そこには、木と樹医さんとの愛の語らいが表現されているように思える。このことを考えると、愛とは、生命と生命とのコミュニケーションなのではないだろうかと思えてくる。
愛国心といわれる愛も、日本人の心の中には、戦争というイメージが付きまとってしまうが、愛国という言葉が真に意味することは、自身の身体の中に流れる祖国の風土、生活様式、文化、そして、人々のつくりなす環境の中に自分の身を置くことによって生まれてくる落ち着きのある心を感じるところに祖国を愛する心があるように思える。自分自身を包み込んでくれる愛にも似た心を自身の中に感じるのではないだろうか。そこには親子の愛にも似た心が作用している。
崇高なる愛、偽物ではない愛は、最も身近な自分自身を愛することの出来ている人から発せられてくるように思える。そこには、主体のない恋とは違い、しっかりした自分という主体がありそうだ。
愛について様々な角度から議論伯仲したが、分析すればするほど本質がどこかに行ってしまうといった感想も聴かれた。多分多くの人が愛ということについて、論理的に考えたことはほとんどなかろう。しかし、愛がなんであるかは身体で感じていたに違いない。身体では感じることが出来るのに、いざ言葉で表現し、愛の真髄なるものを言葉によって示そうとした途端、身体で感じていた愛を十分に表現できないもどかしさを感じる。キリスト教では、崇高なる心、人間の目指す心として愛をいうのに対して、仏教では、慈悲の心を仏の心としている。この両者が言葉の違いによって表現されるように本質的に異なっているものなのか、それとも、翻訳の違い、解釈の違いによって生まれてきた表面的な違いであり、両者の本質的な違いはないというのが真実なのかは分からない。ただ、今回の討議で曖昧とはしているものの、愛とは、各人の心の深層に横たわる宇宙と共鳴する心と心とのコミュニケーションであるということが見えてきた。日本人の言葉に対する感性の鋭さを自賛するとするならば、「あい」という言葉の響きが作る意味として、愛、相、合、間、逢、挨、会がある。これらを眺めてみると、物と物、人と人との間に係わるものが愛の本質的なものであり、先に述べたように、生命と生命のコミュニケーションが愛であるように思われてくる。
最後に、盲聾唖という三重苦の中で、果敢な人生を生き抜いたヘレンケラーが、サリバン先生から「愛」という抽象的な事柄を教えてもらう時の一コマを紹介して今回のまとめにしたい。
『「愛とは、いま、太陽が出る前まで、空にあった雲のようなものです。貴方は手で雲に触れることはできませんが、雨に触れることが出来ます。そして花や乾いた土地が暑い一日の後で、どんなに雨を喜ぶかを知っています。貴方は愛には触れることが出来ませんが、それがあらゆるものに注ぎかける優しさを感ずることはできます。愛がなければ貴方は幸福であることも出来ず、その人と遊ぶことも望まないでしょう。」この美しい真理は、たちまち私の心に徹しました。私は自分の魂と他の人の魂との間には目に見えぬ糸が結ばれていることを感じました。』
今回の議論の中で、愛という言葉は日本には元々なかった言葉であり、日本人の意味する愛と西欧人のそれとは概念上異なっているものがあるのではないだろうかといった意見もあり、日本人と西欧人という文化人類学的な差異が何度となく指摘されました。そこで次回は「日本人とは」をテーマにして話し合うことにしました。政治、経済、文化など様々な角度から日本人について語ってみたいと思います。
次回の開催日を6月7日(水)とした。
- 新しい記事: 第39回 「日本人とは」
- 古い記事: 第37回 「仮想な世界と現実な世界」