- 2005-04-08 (金) 0:57
- 1995年レポート
- 開催日時
- 平成7年7月19日(火) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 古館、霧島、高岡、山田(誠)、広野、塚田、鈴木(智)、久能、尾崎、佐藤、望月
討議内容
今回も前回に引続き、「日本人とは」と題して議論した。始めに高岡さんが提出して下さった、日本人とはと考えたときに思い浮かべたキーワードを基本に討議を始めた。その中にあるキーワードは、花鳥風月で表現される自然観、茶道、華道、武士道など道と係わるもの、地鎮祭、巨木崇拝などにみられる神道を含む宗教との係わりの三つに大別できる。
自然観に関しては、四季の移り変わりが、日本人の心に与えている影響は大きい。中国人の大学教授が、中国のCMと日本のCMとを比較した結果、中国のCMの特徴は、「天人合一」という自然観であるのに対して、日本のCMの中にみられる自然観は「自然を愛する」ことだそうだ。例えば、中国のCMでは、天上彩虹、人間長虹(天上の虹、人間の長虹 一 長虹電器)、天上有雷声、人間有達声(天上に雷鳴あり、人間に達声あり 一 達声音響)であり、日本のCMでは、ときめきの春を迎えに来てください(トヨタ自動車)、海と緑の風、爽やか(西武不動産)といった具合いである。このCMの対照は、同じ東洋文化圏の中にありながら、自然を捉える捉え型が、日本人と中国人とではかなり異なっていることのよい例であろう。日本人は、季節の移り変わりの中に自然の変化を微妙に感じ取り、そこに情緒的な感覚を芽生えさせた。これに対して、中国人は、地平線の彼方まで広がる天と、人間との係わりを身体全体で感じ取っているのかも知れない。身近に山があり、身近に木々がある奈良平野の中に身を置くことの方が、大平原の中に身を置くことよりも心は落ちつくという鈴木さんの率直な感覚も、日本人の感性そのものではないだろうか。身近に四季を感じることのできる風土の中にいたからこそ、日本人としての感性が育まれたように思える。
このように、風土は、人間の心の世界に何等かな影響を与えていることは確かである。同じ、仏教圏であり、儒教を基本としていながらも、それらを感じ取っている心の状態が、元々日本人と、アジア大陸民族とでは異なっていたのではないだろうかという考えも、風土との係わりから推測できる。中国古来の哲理である五行(木、火、土、金、水)も、風土との係わりから見つめてみると、日本と、アジア大陸とでは、相当異なっているようだ。木にしても、日本では、落葉広葉樹林が多く、そこには、四季の変化と、自然との係わりが微妙に映し出される。これに対して、アジア大陸の多くは、砂漠的か、針葉樹杯が多く、そこでは、四季を感じさせるものは日本と比較して少ないのではないだろうか。また、火を太陽との係わりからみると、日本では、湿度が高く、そのことによって太陽光線も弱くなっているのに対して、アジア大陸では、乾燥し、紫外線も強く、一日の気温の変化も日本より大きい。また、土を、平原と山との係わりとみるならば、日本の方が、山が身近にあり、地平線を見ることがなかなかない。これに対して、中国大陸においては、雄大な平原が広がっている。これらのことを考えてくると、韓国人であるイ・オリョン氏が書いた「縮み志向の日本人」の感性が見えてくる。全てがそうであるとは言えないが、大きなものを大ざっぱに捉えることのできるアジア大陸民族に対して、日本人は、身近なものの細部に命が宿っていることとして、小さなものを繊細に感じ、表現することに長けているのかも知れない。それは、四季の変化のなかに、自然の変化を見、その変化を生命として感じていたからなのではないだろうか。
これらのことを考えてくると、人間は、何十万年前の昔から、先ずは自然とコミュニケーションを行っていたように思える。そのコミュニケーションを通して、その風土にあった心が形作られ、それが民族の感性を特徴付てきているように思える。日本語を全く知らない外国人が日本にきて感じることは、日本語の響きが優しく感じるとのことである。現在では変化しつつあるのかも知れないが、日本人の態度のおだやかさ、断定的でなく曖昧な表現など、そこには、仏教や、儒教の影響を受ける以前の日本人の心が基本となっているように思える。
本研究会の議論では、日本人の心の形成が、仏教や儒教の伝来によって大きく影響を受けており、その思想的なものが、日本人らしさを形作っていると言う考え方と、仏教や儒教が伝来する以前に、既に日本人的な心が形作られていたとする意見とがあり、この両者に対する結論は、今回は得られなかった。ただ、参考までに、人間の感性と風土との係わりを分析し、著書「風土」を書いた和辻哲郎が「日本精神史研究」の中で述べている一文を引用しておくことにする。
「法隆寺の建築や、夢殿観音、百済観音、中宮寺観音などの仏像(中略)を模倣芸術とみる論者は、当時の日本人がこれらの芸術によって表現すべき何等の内生をも持っていなかったと盲信しているからである。それらの盲信が根もない独断であることは、右の観察によって立証できたことと思う。我々は、あのような偉大な芸術を作り出した人々を、もっと尊敬すべきではなかろうか。
視点を変える必要は単に芸術に関してのみではないら 仏教理解がかく日本人自身の内生活に即して始められたとすれば、総じて日本人のこの後の思想の開展、政治の発達なども、異なった眼で見られることを必要とする。」
今回は、華道、茶道、書道などの道と係わる日本人観については余り多く議論されなかったが、これらが中国人のものの捉え方と大きく異なっていることの一つの例として、最近新聞記事に出ていた囲碁のプロ選手権における、中国人の日本人プロへの批評に現れているように思える。中国人プロに言わせると、日本人の囲碁は、あまりにも形に執われてしまい、結局勝敗に負けてしまうとのこと。勝敗よりも形を重視する日本人のその精神の中に、同じ仏教、同じ儒教の影響を受けていながらも、中国人とは異なった精神世界が広がっていることを感じる。
曖昧、自然との係わりに表現される繊細な感性、そして、道と係わる精神世界といった日本人特有の感性は、単に仏教や儒教の影響と言うことではなく、元々、日本人の無意識の世界に、これらの感性を重視する世界が展開されていたように思える。そして、独断を許していただけるならば、これらの無意識の世界に展開されていた感性の世界を、論理的に表現してくれたのが仏教であり儒教であったといえないだろうか。同じ仏教や儒教の影響を受けながら、アジア大陸民族よりも、その真髄をより現実のものとして、日本社会が華聞かせているのは、日本人の無意識の世界の価値観を、仏教や儒教が、論理的に意識化してくれているからなのではないだろうか。それは、思想は借り物であったとしても、その思想の精神は、元々日本人の心の中に本物として横たわっていたからなのだと思うのだが。
今回の議論では、まだ日本人とはということについて十分に語り早くされてはいない感を受けました。国際化の中で、世界のリーダ国として日本が発展していくためにも、日本人の本質を私達自身がはっきりと自覚しておくことは重要なことであると感じます。日本人を理解するためには、いままで議論されてきたことのほかに、宗教、文化、政治、経済、言語、教育、社会組織など様々な観点があろうかと思います。そんなことから、次回も「日本人とは」と題して議論したいと思います。次回の開催は、9月27日(水)と、約2カ月ほどあります。この期間、日本人について、メンバーー人一人が、もう一度あらためて考えていただき、次回には、大いに激論をかわされることを期待しております。
お陰様で、この研究会も、今回で40回を迎えることができました。これからも、人間の心の不易な部分に焦点を当て、新鮮な議論を行っていきたいと思います。皆様のご参加をお待ちしております。
暑い夏がやってきます、お身体に気を付け、楽しい夏休みを過ごされますように!
配布資料
- 人間文化研究会40回の歩み
- 日本人とは (高岡)
- 新しい記事: 第41回 「日本人とは」
- 古い記事: 第39回 「日本人とは」