- 2005-04-08 (金) 0:58
- 1995年レポート
- 開催日時
- 平成7年9月27日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- ダイヤルサービス(株)会議室
- 参加者
- 古館、広野、尾崎、牧田、曽我部、佐藤、望月
討議内容
今回も前回、前々回に引続き、「日本人とは」と題して議論した。議論に入る前に、現在の企業での男性、女性の仕事への取り組み方などについて話をしている中で、女性は、他者との係わりの中で、感情的なものに支配され、どうしても自分の能力を100%発揮することが出来にくいのに対して、男性は、どちらかと言うと、女性より、感情的なものにはクールに対処しているように思えると言う意見があった。このことは、まさに、日本人と、他民族との比較においても成り立つ問題のようだ。他民族と比較し、論理的でなく、あいまいな日本人は、男性的な民族というより、情緒的なものに支配された女性的な民族といえないだろうか。消費行動にしても、自身の個性を尊重した消費ではなく、他者との係わりの中で物を購入して行くことが多い。それに比べると、英国人の消費行動は、個人的であり、質素であると、長年英国に住んでいた曽我部さんは指摘する。
日本人のあいまいさは、この議論の中で何度も話題に上っているが、そのあいまいさは、個人の生き方や、政治、経済などに対する思想に関してもあいまいのまま歩んできたようだ。確かに日本人は、世界に誇れるいくつかの日本文化を持ってはいるが、その文化を思想のレベルまで高めることをしなかった。どこかで互いに感じあえているのだからそれでいいのではないかと言う感覚が、あえて言葉によって論理的に表現することに価値を置かない雰囲気を作ってきたように思える。そのあいまいさが、他民族の中で発達した産業革命以降の工業化を、自分達の文化や伝統を考えることなくコピーして植え付けてしまったところに、環境や生活様式にアンバランスが生まれているように思える。そして、それが接ぎ木的なものであるから、日本人は、中身ではなく、外に見える形式に重きを置くようになっているのではないだろうか。元々、形というのは、そこにある生命が宿って初めて形として成り立ってくるのであるのに、生命を宿すことを学ばずに、表現された形だけをまねる形式が生まれてきているように思える。昨今の茶道の作法にしても、生命と直接係わる美学を学ぶのではなく、そこに演出された形式だけを学んでいるように思える。それは、蝉そのものの中に秘められた生命と語り合うのではなく、蝉の抜け殻と語り合っているようなものだ。
ドイツを車で旅してみると多くの人は気付くであろうが、郊外においては、非常なスピードで車を走らしていても、街の入口から制限速度が決められていると、その速度を一人一人がきちんと守っている。制限速度無制限のアウトバーンにおいても、各自のレベルで運転している。そして、ほとんど事故車を見かけることがない。各人が、自分で自分を制していることがよく分かる。これに対して、日本人は、自分で自分を制することをあまりせず、みんながスピードを出しているから自分も出すといったように、他者との係わりの中で物事を運んでいるようだ。教育にしても、ドイツの学校では、会社員の有給休暇と同じ様な感覚で、生徒が好きなように休みをとっている。これに対して、日本の学校では、生徒自身の考え方を尊重するのではなく、規則によって全ての人を同じように縛り付けてしまっている。皆勤が美徳としてみられ、遅刻や早退を悪とする考えにも日本人独特の価値観がありそうだ。そして、いま問題となっているいじめや登校拒否も、ひょっとしたら、日本人のこの本質を置き忘れた規則による価値判断が災いしているようにも思える。規則や形式だけが残り、本質がどこかにいってしまうという日本人のあり様は、それらの是非について、根本から考え、議論していないことからきているのであろう。日本の歴史の中で、哲学や思想があまり発達しなかったのも、日本人が他者と議論するという習慣を持つ民族ではなかったからなのではないだろうか。狩猟や遊牧を命の糧とし、絶えず異民族との係わりの中で生きてきた大陸民族にとって、異なった価値観を持っている者同志、互いを理解し合うには、言葉で、論理的に表現することが是非とも必要であった。これに対して、周りを海に囲まれ、異民族との係わりが極めて薄く、自然の恵みを得ていた農耕民族としての日本人にとっては、語ることよりも、思いやることで互いを理解し合っていたのであろう。
目には見えないけれども、見過ごされがちな日本人の特徴として、きようさがある。折り鶴を日本の子供達に教えると、始めはおぼつかない手でやっていても、次第に上手になってくるが、外国人に教えても、なかなか上手にはならないようだ。日本人は、本質的にきようさを秘めている民族ではなかろうか。初めて日本に来た外国人が、口を揃えて評するのが、日本人は優しく、話言葉が柔らかく響くということだ。心の細やかさ、優しさのリズムも、きようさと係わっているように思える。電車の発着時間の正確さは、世界一だと言われているが、時間に対するこの正確さも、きようさと相通ずるものがあろう。そして、時間に対するこの正確さが、逆に時間を最も意識し、時間に追われた余裕のない民族として諸外国の人達にはうつるのかも知れない。
犬は犬同志なんらかなコミュニケーションをしているのであろうし、幼児は幼児同志、大人には分からない何かを語り合っているように思える。自然の一つの現象として、何か心に共有した世界を持っている者同志は、見えざる言語を用いて語っているのであろう。そして、心に共有空間を持った者同志は、自他を余り区別することなく、互いに感じあっているのであろう。前回にも議論したことであるが、この共有空間を最も強く持っている民族が日本人ではないだろうか。そのために、他人にどう思われているかが気になり、他人と違うことをなるべくしない方向に行動してしまうのであろう。それは、集団行動を促し、個人の秘められた憶力である創造性に蓋をする営みになってしまう。世の中の進化が、電話、TV、自動車、運輸といったインフラと係わっている間は、日本的集団行動は、社会の進化を加速する方向に働くことができた。しかし、インフラ的進化から、創造性と係わる進化に入るこれからの時代にあっては、何等かな形で、創造性を発揮できる社会構造に変えていく必要があろう。コンピュータと通信ネットワークによる勤務形態が、日本人の集団意識を和らげ、創造性を発揮できる環境を生み出していくのかも知れないし、画一的な教育から、創造性を延ばすことのできる教育への変革が、創造化社会を築いていくのかも知れない。
ということで、日本人とはというテーマに関しては、今回で終わることとして、次回からは、創造性と係わる教育について議論することとした。
次回の打ち合せを11月1日(水)とした。
- 新しい記事: 第42回 「教育」
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