- 2017-06-09 (金) 13:36
- 2017年レポート
- 開催日時
- 平成29年5月26日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 「勘」について
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 下山、大瀧、望月
討議内容
今回は勘について議論した。勘という言葉を使った表現をいくつか挙げてもらったが、山勘、勘がいい、勘が鋭い、勘が利く、勘が鈍いといった表現ぐらいしかなかった。初めは、もっとたくさんあるかと思っていたが、割と少なかった。鋭い、鈍い、利くという表現は、鼻が利く、嗅覚が鋭い、目が利くといったように、五感とかかわって用いられることが多い。だから、勘も、五感と同じように、何かを感じる感覚であることは確かなようだ。
勘を第六感や直観と同じではないのかという意見も出た。確かに似ていることは似ているが、どこかしら違っている雰囲気を感じもする。第六感や直感というのは、本能的なものであって、ひょっとしたら動物にもあるような気がする。インドネシア沖で起きた大地震の時、津波が島に押し寄せる前に、動物たちが避難していたという記事を見たことがあるが、この時の動物たちの行動は、第六感、直感に根差したものであったように思う。それは、彼らの聴覚や嗅覚といった五感が鋭かったためだとしても、そうした鋭い感覚から受け取ったシグナルを大地の異変として結び付けているのは、彼らの直観なのだと思う。
勘というのは、動物にもあるのだろうか。日常会話の中で、あの動物の勘は鋭いという使い方をするだろうか。飼い主の足音を聞いて玄関に迎えに行くという犬の行動は、勘というよりも、五感に根差したものであるように思う。蜜蜂がえさを見つける営みも、クモが壊された巣を作り直すのも、五感や本能に根差したもののように思える。人間は、直感的に、勘という言葉の意味するものを人間だけがもつ何かであることを感じ取っていて、人間だけの行動、営みに使っているのではないだろうか。
壁で耐震強度を持たせたつくりをしている我が家で、壁を取り払い、広いリビングに増築した時、大工さんは、あそこに一本横に柱を入れたら大丈夫だと、設計図をつくることもなく、淡々と仕事を進めていったことがある。そのとき、あれは、大工さんの勘だと思った。今の時代は、荷重を計算し、強度を持たせるための設計をすることになるのだろうが、昔の大工さんは、勘で家をつくっていた。
こうしたことを考えると、勘は、直感でも、六感でもないことがわかってくる。そこには、経験を通して体の中に構築されたある感覚がある。直観や六感というのは、人間であれば、程度の差はあれ誰もが平等に与えられているもの、それは、動物や昆虫たちがもつ本能的なものだ。これに対して、勘というのは、経験に裏打ちされた論理基盤のように思える。経験知があって初めて生まれてくるものということだ。
あるプロ野球の投手が、どのようにして選球しているのかを問われた時、それは、相手の雰囲気を読むことだと語っていたが、そこには、積み重ねられてきた経験知が、雰囲気を察知し、その場に合った一球を選択しているなにかがある。それはまさに投手の勘である。同じように、刑事の職務質問によって、犯人が捕まることが起きているが、それも刑事の経験によって培われた勘である。
勘には、経験で培った論理的なものが、六感や直観とも共鳴するものによって支えられて生まれてくるもののように思える。経験で培った論理的なものは、ある意味コンピューターに移し替えることができる。でも、六感や直観とかかわったものは、その場の雰囲気によっていかようにも変化するため、コンピューターに移し替えることはできない。この論理性と非論理性とを共に持ったものが勘であろう。だから、熟練工の技術をコンピューターに置き換えることはできても、素材の状況や、機械の微妙な変化など熟練工が感じ取る雰囲気まではコンピューターに移すことは不可能であろう。この熟練工の技量と雰囲気を感じ取る感覚とが調和して初めて勘が生まれてくるということではないだろうか。
近年AI技術が発達して、プロ棋士を負かしてしまうコンピューターが生まれてきているが、コンピューターに入力できるのは、棋士の能力がもっている論理的な部分だけであろう。無意識の世界で培われている非論理的な感覚をコンピューターに持たせることは不可能なように思える。もちろん、論理的な部分も、きめ細かく分析されていくことで、非論理の世界には限りなく近づけることはできるであろうが、コンピューターに勘を抱かせることは、本質的に無理なように思える。それは、勘というものが、非論理の世界に結びつき、それが生命そのものと直接かかわっているものだからなのではないだろうか。
近年の社会の歩みを見ていると、効率、合理化、スピードといった言葉が語っているように、勘を育てることよりも、論理性を高めることに力が注がれているように思える。遊びもいつしか、コンピューターと対峙することになっているし、教育も、コンピューター相手に行われつつある。人と人とのかかわりも、情緒や共感といったものを自然に感じあえる世界から、単なる儀礼や言葉だけの論理的なかかわりへと変化しつつある。AIが叫ばれる時代だからこそ、論理性の内に秘められた非論理の世界の大切さ、勘を育てる環境が必要なように思える。
次回の討議を平成29年7月28日(金)とした。 以 上
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