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第35回 「表情」

開催日時
令和元年5月17日(金) 14:00~17:00
討議テーマ
「表情」について
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
下山、大滝(茂)、大滝(ち)、伊藤、望月

討議内容

新元号令和になって初めての人文研、今回は、表情について議論した。表情というのは、哲学的テーマでもなく、議論するには捉えどころのないものだと始めは感じていたが、議論するうちに段々とその奥の深さに気付かされてきた。まずはじめに、参加者全員に、表情という言葉から連想する事柄を挙げてもらった。喜怒哀楽、裏と表(これは、心では怒って顔では笑っているというような意味)、目、能面、モナ・リザの微笑み、コミュニケーションの一手段など。

 こうしたことが意味しているのは、表情が心の表現であるということだ。では、この表情は、人間だけのものだろうか。犬や猫をペットとして日々一緒に生活している人にしてみれば、犬や猫にも表情はあるという。でも、そうした動物の表情と人間の表情とを比べてみると、人間の抱く表情の方がはるかに豊かであることは間違いない。動物にも喜怒哀楽はあるのであろうが、人間の表情ほどには、はっきりとした表情として表現されてはこない。もちろん、身体全体で喜怒哀楽を表現したりすることはあるであろうが、顔そのものの中にそれらをはっきりと表現できるのは人間だけである。

表情というと、顔に表される心模様ということになるが、拡大解釈をすると、身体全体の表現までも表情ということもできよう。能面が、光の陰影によって、喜怒哀楽を表現できるというが、それは、能面だけによるのはもちろんであろうが、能面をつけた演技者の手足や体の動きと結びついてそれを見る者が能面の表情をイメージしているからともいえる。要するに、心の有り様が、身体全体に働きかけていて、特にそれがはっきりと表れているのが顔の表情ということであろう。

目は口ほどにものを言うといわれるように、特に目を中心にした表情は、コミュニケーションの一手段でもある。そして、それは、心を表現する言葉の存在とも深く係わっている。すなわち、人間が言葉によるコミュニケーション手段を持っていることと、豊かな表情を持っていることとは、二にして一なるものであり、人間を人間たらしめている根源的なものを内に秘めているからということではないだろうか。そして、それは、人間だけが持つ根元的な何かが、他の動物にはできない、言葉によるコミュニケーションを行わせ、豊かな表情を表現できる力を与えているということのように思える。

さて、ここで、議論は思わぬ方向に展開することになった。それは、顔にはいくつもの異なる筋肉があるのに、それらの筋肉を一斉に動かして、喜怒哀楽のような一つの心模様を表現できているというのは一体どうしてなのだろうかという問題提起だ。心は一つなのに、その心を表現するために多くの筋肉が一斉に働き、一つの表情を生み出している。日常当たり前のようにやっていることが、よく考えてみれば不思議なことだとわかってくる。それをオーケストラに譬えてみると、ことのありようがよりはっきりと見えてくる。オーケストラには、バイオリン奏者もいれば、ホルンやフルート奏者もいる。こうした多様な楽器を顔の一つ一つの異なる筋肉に対応させると、表情というのは、オーケストラが醸し出す音色ということになってくる。そして、その表情を生み出す心は、オーケストラを指揮する指揮者の存在に対応できよう。

オーケストラが、全体で一つの音色を創出できるのは、指揮者の存在と、その指揮者の指揮に基づいて演奏する一人一人の奏者の存在があり、かつ両者が心を共有しているからである。とすると、一つの心を表情として表現できているのは、その心を一つ一つの筋肉が感知し、それぞれの筋肉にあった動きをしているからということになってくる。そうだとすると、表情を表現する一つ一つの筋肉細胞の中にも、同じ一つの心が貫かれているように思えてくる。そして、その営みは、心を表現するための言葉を生み出している舌、顎などいくつもの筋肉活動とも共鳴するものだ。

表情と遺伝との間には何か係わりがあるのだろうか。鼻が高いとか、目が大きいとかいった顔の形にかかわるものは、遺伝子と深く係わっている。NHKの遺伝子に関する特集番組で、ある男優の遺伝子だけをたよりに、その人の顔を再現してもらうと、よく似た顔が描きだされてきた。でも、その顔は無表情で、似ていると言えば似ているし、似ていないと言えば似ていなかった。それは、人間の表情が、遺伝子だけでは作られていないことを物語っているように思われる。そして、それは、同じ人が、ある時は神様のような愛らしい表情になったり、ある時は、鬼のように怖い顔になったりするように、同じ遺伝子で作られた顔ではあっても、表情が心によって大きく左右されることからも理解できる。

表情には、民族的な差があるのだろうか。そうしたことを専門的に調査研究した結果はあるのであろうが、その専門性に登場してもらわなくても、モナ・リザの微笑みに見られるように、民族に関係なく誰が見ても、そこには微笑みを感じるであろうし、ムンクの描いた「叫び」も、そこには民族に共通な不安と恐怖がにじみ出ている。ムンク自身によると、「自然を貫く果てしない叫び」に怖れおののいて耳を塞いでいる姿を描いたものだという。また、鬼を表現した仮面が世界中にあることも、喜怒哀楽といった心の有り様と表情とが、民族の壁を越えて人類に共通のものであることを物語っているように思える。

こうして考えてくると、言葉は民族によって異なってはいるけれど、表情は、民族に共通なコミュニケーション表現であると言える。そして、ひょっとしたら言葉に込められた優しさや怒りといった声表情も顔の表情と同じように民族に共通なものであり、その出どころは、遺伝とはほとんど関係なく、人間としての根元的かつ共通な心にあるのではないだろうか。

次回の討議を令和元年7月26日(金)とした。
    以 上

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