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第55回 「善と悪」

開催日時
平成9年7月16日(水) 14:00〜17:00
開催場所
KDD目黒研究所
参加者
広野、中瀬、山崎、村土、望月

議事内容

今回は「善と悪」について議論した。私達は、日常様々な事件や由来事に接する中で、ある面無意識的に、その事毎に善と悪という判断を下している。例えば、野村証券や第一勧業銀行の問題に関しても、事実が表面にでない状況の中では、野村証券や第一勧業銀行各社内においては、あるべきものとして、悪とは判断されることが少なかったであろう。しかし、それらの事柄が表面化し、社会的な問題になると、関係者の多くは、悪者としての烙印を押されることになる。一般生活の中で、それが常識化していると、それは善とは言えないまでも、悪とは判断されない状況が生まれてくる。そして、このような常識紛いの事が、組織の中に蔓延していることは日常茶飯事である。

このことは、小は自分自身の日常の行いから、大は国や世界に至るまで、それぞれの組織にとっての常識が自然に生まれてきて、その常識が、善と悪との基準を生み出しているといえる。戦争時の殺人は、国家の命運をかけると言うことで善として判断されるし、戦争を批判した思想家は、悪者として牢獄に追いやられてしまう。また、日本の時代劇にみられるように、敵討ちという行いは、殺人を目的とした行為であっても、正当化される常識としての共通価値基準があるし、死刑にしても、人を殺す行為には違いないのに、正当化される国家的な価値基準がある。このように、私達の善と悪の判断基準としては、私達の作る社会的常識が関与することが多い。

しかし、その社会的常識とは別な次元で、私達は、こころの奥深いところに、人間としての善と悪を判断する基準を各人が持っているように思える。社会的な常識によって判断される善と悪を流行的な善と悪と捉えるならば、各人のこころの中に宿る人間としての判断基準は、不易的な善と悪と言えるであろう。

組織というものの存在は、人間の不易的な善から始まって、次第に組織の中だけで通用する流行的な善が蔓延し、いつしかそれが、不易的な善と悪に照らし合わせたときには、悪に変化して行ってしまっていることが多くみられる。企業活動を例にとるならば、企業が設立された当初は、創始者の人生哲学なるものが基本にあって、世の為人の為になる企業を目指し、社員が一丸となって仕事に取り組んで行くが、企業が次第に大きくなり、創始者も過去の人となってしまうと、経営者の我欲がはびこってくる。世の中に役に立つ企業という精神から、経営者の我欲のため、競合他社に打ち勝つためという精神へと変化して行ってしまう。そこには、形は違っても、領土獲得のための戦争とよく似た戦いが繰り広げらることになる。競合他社に勝ち抜くことが善であるという企業組織の中だけで通用する常識が価値を持ってくるのである。そして、その企業組織の中だけで通用する価値に則って生きている人が、組織のトップとなっていくことが当り前の感覚で行われていく。野村証券や第一勧業銀行の問題も、組織的常識が、人間の不易的な善から大きく離れてしまった結果であろうと思われる。

ドストエーフスキーの罪と罰は、高利貸しの老婆の悪人的行為に対して、殺人という形で制裁を加えた主人公の精神的葛藤を描いたものである。殺人を正当化することを表現した次のような一文がある。

「まあかりにですね、ある一人の男が、もしくは青年があって、自分をライカルガスかマホメットとでも思い込み・・・・・・・・それに対するあらゆる障碍を除去し始めたとしたらどうでしょう」

そこには、敵討ちにも似た殺人正当論が表現されており、オームの殺人正当論とどこかしら重なり合うものがある。自分自身こそ世の中の悪を追い払う聖者であり、悪の芽を取り除くために殺人を犯すのであるという理屈が成り立つのであるならば、人間の作った刑法などもはや何の意味もなさなくなってしまう。

中学生や高校生が平気で煙草をふかし、援助交際を悪い行いではないと考え、殺人を楽しんでしまう現在社会は、どこかが歪んでいるが、その基本には、人間として歩むべき道、不易的な善と悪とに関する教科書がないことが大きな要因であるように思える。

それでは不易的な善と悪とは一体どのようなものなのであろうか。一言で表現するならば、自分のものではないものを奪うことが悪であり、人に与えるものが善ととりあえず考えることが出来ようか。そのことをもう少し進めて考えていくならば、宇宙の営みとの係わりから次のように考えられるのではないだろうか。

宇宙の営みは、仏のこころ、あるいは神のこころとでも表現できるでしょうが、そのこころを広く持つことを願っているのではないだろうか。そして、誰のこころの中にも、この仏の芽はあって、その芽を伸ばずことの営みが善であり、その芽をつみとってしまうことが悪と判断されるのではないだろうか。人を殺すことは、その人の中にある仏の芽をつみとってしまうことであり、自殺することは、自分の中にあるその仏の芽をつみとってしまうことになる。他人に対する様々な形での思いやりは、その人の中にある仏の芽に光を与えることであり、自身の中に秘められた仏の芽を伸ばすことでもある。

もしタバコに害があるとするならば、タバコを吸うことは、時間をかけた自殺に等しい事なのかも知れないし、援助交際が悪いとするならば、そこには、援助する方も援助される方も共に、各人の仏の芽を切り落としてしまう隠された働きがあることを直感的に感じているからではないだろうか。

部内旅行や課内旅行といった権威と係わる集団行動が少なくなり、より本音で行われる個人的な活動が生まれてきていることは、権威や権限によって押し込まれていた自分自身を取り戻すことへの動きのように思える。その自分自身を取り戻す行為が、良い方向にでると自己実現的な営みにつながっていくであろうし、悪い方向にでると我欲をエスカレートする方向に働いていってしまう。現在日本が迎えている社会環境は、自己と自我という二つの異なる方向に、各個人が自由に芽を伸ばすことの出来る環境であることは確かである。そのような中で、できるだけ多くの人が、自身の無意識の世界に秘められた自己の世界を目指して歩むことが出来るならば、社会は良い方向に生まれ変わっていくであろうし、多くの人が自由と称して、我欲を追求していくならば、社会は益々危険な方向に向かっていってしまうであろう。

善と悪とに関係してくることで、もう一つ時間との係わりがありそうだ。ミヒャエル・エンデの「モモ」が警告するように、人から時間的な余裕が奪われていくと、そこには人としての生命活動がなされなくなってくる。他人に対する思いやりも、考えるという営みもできなくなってくる。最も人間らしい営みが、時間を意識することで奪われていってしまう。競争下の社会の中で、子供達は子供達なりに、大人達は大人連なりに、時間の渦の中に巻き込まれ、ゆったりした時の中で過ごす機会が益々少なくなってきているように思える。他人よりも早く歩むことが善であるかのような錯覚の中で、人は益々早く,歩かなければならない環境を生み出している。

情報化社会という快い響きの中で、インターネットが企業の中には行き渡り、個人生活の中では、携帯電話が蔓延する環境の中で、一人で静かに過ごしたり、人とゆったりと語り合う時間が日々奪われていっている。多分、人はゆったりとした時の中で、自身の中を貫く宇宙生命とコミュニケーションをはかり、悠久なる生命を内に感じる事が出来るのであろうが、そのことの出来る機会が奪われているという現実は、人から生命が奪われ、人が機械化されていく流れのように思える。そういう意味からして、人に余裕を与えない社会変化は、人から生命を奪うという意味で、社会悪になっているのであろう。いずれにしても、私達一人一人が出来る善への営みは、我欲に捕らわれず、時間的余裕を持ちながら、身近な人との出会いの中で、各人の持っている仏の芽を伸ばすことの出来るような環境作りを地道に続けていくことなのかも知れない。

次回の開催を9月17日(水)とした。次回は「芸術」について考えてみたいと思います。

以 上

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