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第76回 「心」

開催日時
平成12年11月22日(水) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
土岐川、山崎、下山、松本、中村、市川、泉谷、田中、吉野、 池田、川辺、川辺、望月

討議内容

今回新たに、三人の方が参加してくれました。池田さんは、山形県遊佐町の役場に勤める傍ら、現在は、休職して、東北芸術工科大学の大学院生として研究に励んでいらっしゃいます。趣味としては、演劇をすることで、自ら劇団を作り、年1〜2回の割合で公演活動をしているとのことです。川辺さん夫妻は、まだ結婚して間もないお若い二人です。ご主人の方は、いくつかの職場を転々と経験した後、現在作業療法士の免許を取得するため夜間学校で勉強中とのこと。また、奥様の方は、看護婦をされていて、以前動物を相手に研究をしていたことがきっかけで、動物より人間に興味を持つようになったとのことです。新たな三人のメンバーが、新しい角度から意見を述べられ、人文研に新たな香りを持ち込んでくれることを期待しています。

今回は、心についてということで議論した。一言で心といっても、そこには、言葉では表現し尽くされない世界が広がっている。私達は、何かあると、心、心と使っているけれども、その心をあらためて言葉にして表現してみようとすると、その表現という手元から転げ落ちてしまうような、そんな掴みどころのないものが心である。ただ、その心という、言葉にしては掴みどころのないものを、私達は、共通に持ち、その心という言葉で、暗黙の了解として、一人一人に共通した世界を作り上げている。そこには、意識では作り上げることのできない、広い世界が広がっていることを感じさせる。

心と同じような世界を表現してはいるけれども、微妙に異なったものとして、精神、魂、といったものがある。精神と心との違いをあえて表現するならば、精神という響きの中には、何処かしら形式的な、科学をイメージさせるような冷たさというか、堅苦しさを感じさせる。心も精神も共に私達の内的世界を表現したものではあるけれども、精神の方が、より意識的、理性的な世界を指し示している。そこから生まれてくるイメージは、多角形のようなごつごつとしたものを感じさせる。これに対して、心という響きには、何処かしら優しさ、角のないまろやかさがイメージされる。これらのことを考えてくると、心の方がより原始的、あるいは、心の方がより原初的な世界であり、その上に精神という論理的な内的世界が生まれたというように考えられる。すなわち、心の中には、広い意味で精神も含まれてしまうということである。それを、意識、無意識という世界から見直してみると、精神とは、意識の広がった世界であるのに対して、心は、無意識の世界をも含んだ世界ということではないだろうか。だから、精神分析というのは、元々心の中に広がる無意識の世界に、意識の明かりをともしていく営みであると言えるのではないだろうか。

もう一つ、心には、無意識の内に人と人との内的世界を結びつけている力が秘められているということである。心の源は、一人一人の内的世界の根源にある共有するものであり、それは、全ての人に共通にあり、それ故に、その共通なものによって互いが切り離すことのでできないものとして結びつけられているのである。意識がまだそれほど台頭することのなかった時代、この心の持つ力は、一人一人の心を結びつけ、思いやりや共感といった心を生み出していた。その結びつきが生命そのものであり、そこに心の源があった。ところが、一人一人が意識の虜になり、自我を意識するに従って、自分と他人とを区別する世界が広がってきた。こうして、意識は、元々心の根源が持っている互いを結びつける力を置き忘れ、土台のない意識の世界を益々増長させるようになってきているのである。そのことが、結局は、学校や組織でのいじめの問題、家族の崩壊、組織の崩壊など、場の破壊となって表面化してきているのではないだろうか。物の豊かさから、心の豊かさへというスローガンは、物の豊かさによって、切り刻まれてきてしまった心の源としての場を取り戻そうとする動きに他ならない。

以上のことを考えてくると、心とは、一人一人に共通し、互いを結び合わせている力としての世界の上に、一人一人に特徴的な個人的な世界を生み出している内的世界全体のことであると言えよう。論語の中に表現された「和して同ぜず」と言う言葉は、まさに個と集団という心の世界の有様を一言で表現したものではないだろうか。そして、心とは、全ての生命活動の源でもあり、それがなければ、生きていくことのできないものでもある。20世紀が物に代表されるように、心の中の個の部分を増長させることにエネルギーを費やした時代であるとするならば、21世紀は、心の中の全体で一つとするもう一つの世界、すなわち、場の世界を拡大させることにエネルギーを傾ける時代であるのではないだろうか。

次回の開催を平成13年1月25日(木)とした。

以  上

人間文化研究会から一言

時の流れは早いもので、人文研がスタートして、10年の年月が流れました。この間、今回を含み76回の会を開催してきました。そこでのテーマは、50以上にのぼり、それぞれのテーマを、参加者の思い思いの意見を元に、様々な角度から議論してきました。いつもいつも思うことは、一つ一つのテーマが、日常当たり前のように感じているものではありますが、それらをあらためて意識という土俵の上で議論していきますと、そこからは、一人ではなかなか考えの及ばない世界が見えてきまして、小さな発見をいくつも経験してきたように思います。
始めた当初から、人文研の目的について、何人もの方々から質問を受け、その度に、この会には目的がないのですと答えてきたのですが、あえて目的をいうならば、一人では到達することのできない未知の世界を、みんなで作り出すことの喜びにあると言えるかと思います。でもそれだけでは、素直に、目的を表現していないようでして、もう少しこの研究会の目的をはっきりした形で表現するならば、一人一人の集まりによって、自分一人では発見できない知恵の世界へと自らを導くことであり、それは、自身の精神的進化を目指す営みであるということでしょうか。
いずれにしましても、この十年の年月の流れの中で、多くの方々が、参加され、また、離れていきました。それは、まるで、日々古い細胞が消え去り、新たな細胞が体の機能を維持していて、そこには、変わることのない自分がいつもいる私達の身体と同じように、参加される方は、その時その時によって変わるのですが、そこには、人文研としての変わることのない機能がいつもいつも漂っていたように思います。
20世紀も残すところ後3週間ほどになってきました。新たな時代、私達人類は、一体どのような方向に向かって歩んでいくのでしょうか。どのような新たな技術やシステムが開発され、日常生活をどのように変えていくのかは分かりませんが、新たな時代を迎えても、変わらないものは、人間的に成長したいという暗黙の欲求が、一人一人の心の中に秘められているということではないでしょうか。どんなに世の中が便利になり、どんなに医療が発達して、病気が治り、長寿な世界が生まれたとしても、そこに、生きることの意味をはっきりと覚知できる自分がいなければ、生は意味を持って生へと変換してはこないのだと思います。意味のない生は、動物の営みであり、一人一人がやはり生きる意味をはっきりと覚知できる心の世界を持ってこそ、そこに始めて人間としての新たな幸福の世界が生まれてくるのだと思います。
動物的な幸福から、人間的な幸福に目覚めるためには、一人一人の無意識の中にある自己の世界に意識の明かりをともすことが不可欠であり、それは、一人一人が内省することから始まるものだと思います。21世紀、一人一人が自己の世界と邂逅できる、そのための一つの礎として人文研が存在することを願い、そして、新しい年、皆様のご健康と飛躍とを願いつつ、20世紀の人文研の門を閉めたいと思います。よいお年を、そして、よい世紀をお迎え下さい。

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