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第77回 「幸せ」

開催日時
平成13年1月25日(木) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、塚田、土岐川、中瀬、山崎、桐、水野、下山、徳留、松本、大原、佐藤、望月

討議内容

今回は、幸せについてということで議論した。幸せとは一体なんだろう。この言葉が日常当たり前に使われていて、その当たり前の中で、私達は、幸せというよりも、苦しさを感じないことが幸せであると思ってはいないだろうか。そして、その苦しさを感じないことの一つとして、利便性を求めてきた。確かに、私達の生活環境は、数十年前よりはるかに改善されてきている。ライフラインと呼ばれる、電気、ガス、電話、そして、交通機関等々、日常生活を営む上で、様々なものが便利になってきている。その便利さの上で、今度は、精神的快楽をも利便性とともに得られるような環境が生まれてきている。インターネットや携帯電話のように、確かに情報を享受する環境としては、人間の限りない欲求を満たそうと、技術的開発が行われ、人間の欲求を越える技術までも生まれてきている。それらの技術を用いて、私達の欲求は、時空を越えて広がってきている。欲求が新たな環境を作り出し、その環境によって、また新たな欲求が生まれてくるという、欲求の増殖が生まれてきている。はたして、その欲求の充足が幸せとつながるのだろうか。

日常生活を見ると、私達の生活速度が、日々早まってきていることに気付く。移動の一つの手段としての新幹線にしても、開発当初の速さは、東京・新大阪間が3時間10分であったものが、今では、2時間30分までも早まってきている。情報の伝達速度にしても、郵便によるやり取りから、ファックスになり、さらにはインターネットへと変化し、数日でやり取りしていたものが、瞬時にできるようになってきた。これらの利便性は、一見、私達の生活を豊かにしてきているようではあるけれども、そのことによって、私達の仕事の速さは益々早められ、それだけ、時間的余裕のない世界を生み出してきているのである。これは、仕事だけに見られる現象ではなく、楽しみにしても、益々刹那的な楽しみを次から次に追い求める社会環境になってきている。

今から、30年ほど前頃までは、例えば正月にしても、そこには、心の底から待ちわびる新鮮な喜びがあった。そこには、ささいなことではあるのかもしれないが、心を浮き立たせる楽しみがあった。学生にしても、遠足や修学旅行といった、年中行事が楽しみの大きな目標となっていて、その日が来るのを待ちわびながら、日々の勉学に精出していたものだ。外界と係わる受動的な楽しみは、皆と一緒に遊びをすることであり、そこには、自ずから、友達との係わり、自然との係わりがあった。夕暮れになれば、どんなに楽しい最中であっても、遊びを終わらせなければならない自然の抑制力が働いていた。しかし、今では、24時間、いつでも、何処でも、受動的な楽しみ、受動的な遊びを享受することができる。ある楽しみに飽きたら、新たな遊びへと転化できる環境が与えられている。その刹那的な遊びの渦に巻き込まれながら、それを幸せであると思い込んでいる社会がある。はたして、これが人間にとっての本当の幸せなのであろうか。

定年を迎えた人達が、生きがいを求めて、文化活動にいそしみ始めるが、それとても、刹那的な喜びを求める営みと何ら変わることはない。生きがいという言葉も、快く響く言葉ではあるが、生きがいを求めての文化活動は、その根底においては、子供達が刹那的な快楽に耽っていることと本質的には余り変わりはないように思える。それは、幸せを求めながら、結局は、刹那的な快楽の世界の中で、自分をごまかしながら生きていることではないのだろうか。確かに、暇のある人達にとって、生きがいとなるものを見つけることは、生きる上では極めて大切なことではあるけれども、その生きがいも、刹那的な快楽の中で、退屈さを紛らわせていることではないのだろうか。私達が、日常思い込んでいる幸せ感は、退屈さを紛らわせる刹那的な快楽の中での麻薬にふけった精神状態にも似てはいないだろうか。麻薬から覚めた不快な心を嫌い、さらに麻薬にふける。現代人の多くが、知らず知らずに行っている営みは、情報とか、感性であるとか、遊びであるとか、体のよい言葉で表現されてはいるけれども、それらは全て、情報といわれる麻薬に浸っていることではないだろうか。

夢を求めることが幸せであるという人もいる。現代はこの夢を求めることができていないために、刹那的な快楽を求めてしまうのではないかと。でも、はたして夢があればそれが本当の意味での幸せ感につながってくるのだろうか。夢を一つの目標として、次々にその夢を実現してきた人が、最後には夢を喪失することで生きることの意味が分からなくなってしまった例もある。その夢も、先に述べた刹那的な快楽を追い求めている心と何処かしら共鳴する幸福感ではないだろうか。どんな刹那的な幸福感に浸っていても、悩みもなく、一見幸せな状況の中に身を置いていたとしても、私達は、時として、心の奥の方で満たされない何かを感じるときがある。激しい快楽にふけっていても、時として、はたしてこれでいいのだろうかという内からの声が聞こえる経験を誰しも一度や二度はしているのではないだろうか。その刹那的快楽に反省をもたらすこの内なる声は、一体何なのだろうか。それは、真の幸福を求めさせようとする自然の力のようにも思える。

時として、赤ちゃんや、犬や猫のようになって、自由で気ままな生活の中に生きられたらと思うことがある。しかし、私達は、そうは思っても、赤ちゃんや犬や猫そのものになりたいとは思わないだろう。それは、自らの意志で、能動的に生きていこうとする人間的な営みがかけていることによろう。人間の求めるもの、それは幸せと直接係わってくるものであるが、自らの内から創造的に生み出す何かなのではないだろうか。それと、人の求める喜びには、日常生活からの解放というものがある。ディズニーランドに代表される場は、人を非日常空間へと導く魅力が秘められている。しかし、そのディズニーランドにしても、人が求めるものは、外から与えられた受動的な楽しみである。だから、その楽しみに慣れてしまうと、その場への魅力は半減してしまうのであり、提供側には、人を引きつけるために、その時々に、新たな企画が求められてくる。この快楽競争は、歌、TV番組、漫画、各種エンタテインメント、あらゆる分野に起きていることであり、様々な人の刹那的快楽を充足させようと、世の中はあくせくとこの快楽競争の渦のなかに巻き込まれているのである。

同じ非日常空間を与える場として茶室がある。しかし、茶室は、ディズニーランドとは異なり、変化しなくても、人の心を捉え、人に快さを与えることができる。そこには、人の無意識の心を解放させ、その無意識の世界からのメッセージを自由に表現できる時空間が広がっているからであろう。そこでは、能動的な営みによる喜び、すなわち、自らの創造性を豊かに発揮することによる喜びが生まれているのであり、それは、刹那的な幸せ感というよりも、どこかしら悠久な幸福感と関わり合う世界を垣間みているように思える。いずれにしても、息の長い幸せ感は、自らの創造性を働かせる能動的な営みから生まれてくるように思える。

もう一つ、私達が幸せを感じることの中に、愛がある。もちろん異性を愛する愛の中にも、この幸せ感はあり、誰しも経験するところであるが、必ずしも異性との間の愛だけではなく、困っている人を助けたり、人のためになることに奉仕したりすることで、人から感謝され、その人と人との心の共鳴に、幸せを感じるものである。確かに、愛には、刹那的な幸せ感とはどこかしらちがった幸せ感が漂っているように思える。それは、麻薬的な幸せ感ではなく、自らの力で、自らの中にある幸せの扉を開いていくような、言葉を変えて表現するならば、外科的な治療ではなく、自らの持つ自己治癒力で健康になっていくような、そんな幸福が、私達の心の中には、秘められているのではないのだろうか。元々人間の心の根底には、幸せ感を生み出すものが秘められているのに、人は、その秘められたものを求めようとはせず、外の世界と係わる刹那的快楽を幸せと思い込んでいるのではないのだろうか。先に述べたように、どんなに刹那的な快楽に耽っていても、時として、これでいいのだろうかという内からの声が聞こえてくるのは、一人ひとりの内に秘められた幸福の源を自らの努力によって見つけ出しなさいというメッセージなのではないだろうか。

益々激しく動く社会の中にあって、益々刺激的な快楽の渦の中にあって、私達は、もうそろそろ本当の幸福、すなわち自らの内に秘められた幸福を求めることに真剣に取り組む必要があるのではないのだろうか。そして、その秘められた幸福への道は、激しく動き回る社会から身を引き、静かに自分自身と対峙する一時を、自らの努力によって作り上げていくことの中から生まれてくるように思うのだが。

次回の開催を平成13年3月16日(金)とした。

以  上

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