- 2005-04-09 (土) 22:39
- 2001年レポート
- 開催日時
- 平成13年3月16日(金) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 広野、土岐川、山崎、桐、下山、市川、松本、吉野、高須、望月
討議内容
今回は、平等ということについて議論した。世の中では、学校教育においては、平等という名の下に、運動会の競技の中から、個人競技が姿を消し、成績評価も、個人の努力に重きが置かれ、他者との相対的な順位を議論することが次第に少なくなってきている。職場においては、男女機会均等法という法律が施行され、男女の労働環境が平等という名の元に平準化されてきてもいる。そうかと思うと、一人ひとりの能力に見合った教育の場も求められていて、飛び級の教育システムも導入されてきているし、職場においては、女性といえども、配置転換や、異動などによって、単身赴任を強いられたり、残業を強いられたりする環境が生まれてきている。
これらの社会の動きを見ていると、平等ということが、様々な視点から捉えられていることが分かる。順位を無くした学校教育は、生徒の持つ能力を、単に科目や運動といった一面性だけで評価するのではなく、全人的なものによって評価しようとする平等性であるし、飛び級に見られる平等性は、ある特別な分野に能力があるものには、等しく機会を与えて上げようとする平等からきている。また、男女機会均等法に見られる平等は、企業の門戸に対して性差をなくそうというものであり、勤務体制に対する平等性は、性差の持つ生活基盤を無視し、人間として平等に対応するという姿勢から生まれてきている。同じ平等であっても、どの視点に立っての平等かによって、平等に対する結果が異なってくる。
確かに、社会的機能から見るならば、そこに性差を元にした評価尺度が存在することは、男女平等ということからは反する。しかし、男女には、それぞれ本質的に持っている性差がある。子供を産める産めないというのは論外におくとしても、最近の研究成果からは、男性と女性とでは、脳の構造そのものが違っていて、それだけ、精神活動が異なっているとも言われている。これらの精神活動の性差が、社会との係わりにおいて、適不適な性差を生み出し、そのことが、不平等性を生み出してもいる。ただ、その不平等性を平等ということによって是正しようとした途端、このもともと持っている性差による精神活動を不自然なものに歪めてしまうとも限らない。
人間の営む社会は、いくつかの層構造になっていて、どの層で平等性を用いるかによって、平等の意味が異なってくるように思える。例えば、男女平等という場合には、もともとある性差があまり大きく係わってこない状況の中での平等であるし、男女の性差によって起こる体力差、生理差、情緒性の差といったものをもとり入れた中での平等性は、始めの男女平等とは異なった層での平等性である。平等を主張する時には、その平等がどの層での価値概念であるかをはっきりとさせる必要がありそうだ。
平等という言葉が意味を持ってくるその基本には、権利というものがあるように思える。ある権利に対して、平等という概念が成り立ってくる。自由というのもある意味権利であるし、選挙権、教育を受ける権利、働く権利等々といった権利に対して、平等ということが言えるのであろう。ただ、同じ平等という概念ではあっても、日本人の平等性と、アメリカ社会の中での平等性とには、大きな隔たりがありそうだ。
日本人の平等性は、ある意味、受動的な状況の中で等しく与えられるという平等性であるのに対して、アメリカ社会での平等性は、一人ひとりの意志と関わり能動的な営みに対して平等性がある。例えば、教育分野に例をとってみてみると、日本の教育に対する平等性は、教育を受ける権利に対しての平等性であるのに対して、アメリカにおいては、自ら学ぶ権利に対しての平等性であるように思える。だから、日本での大学への門戸は、平等な試験によって門戸が開放され、試験に合格したものが大学に入れる仕組みになっているが、アメリカでは、学問をするその意志に対して平等の権利が与えられている為に、大学受験というような、日本のような過激な受験戦争がない。受動的な世界での平等性と、能動的な世界での平等性とでは、大きく異なる。
このことをケーキの分配にたとえてみると、その意味するものがよりはっきりと浮かび上がってくる。日本人の平等性は、ケーキを個々の差異が分からないほど等しく切って、それを何人かに分配することに平等性があるのに対して、アメリカ人の平等性は、適当の大きさ、そこには大きいものもあり、小さいものもあるが、そのように分けた後で、そのケーキを誰が始めに選ぶか、その選ぶ権利に平等性がある。選ぶべき順序を決めるその決定の場に平等に参加する事が出来るということである。そして、何等かな方法で順序が決められたなら、最初に選択権のある人は、自分の意志で、好きな大きさのものを選ぶことが出来るのである。そこには、一人ひとりの物に対する意志的な係わりが尊重された平等性がある。これらの二つの平等性の違いが、日本とアメリカの教育、政治、経済等々への取り組み方に現れているのではないだろうか。
いずれにしても、平等には、個人の主体性に重きを置いた場合の平等性と、集団の中での個人の受動的状況に重きを置いた場合の平等性がありそうだ。先に述べたように、前者は、アメリカ社会での平等性であるし、後者は、主として日本社会における平等性である。このように、この両者は個人の主体性という点では、全く異なった動きを示しているが、それでも、これらの二つのものに共通して言えることは、どちらも、富、地位、名声、といったものを求めることへの係わりであり、その求めるものに対して、等しく機会を与えているという平等性である。与えられるものが外の世界にある中での平等性である。これに対して、与えられるものが一人ひとりの内の世界にあって、そのものを求めることの出来る平等性がある。これは、自己実現と係わる平等性であるが、世の中の多くは、この自己実現と係わる平等性よりも、先に述べた富、地位、名声といった外の世界すなわちエゴと係わる世界での平等性に大きな関心を持っている。アメリカ社会が、フロンティア精神に満ちた社会であり、そこには、個人個人の主体性を重んじる平等性があるが、その平等性は、エゴと係わる世界での平等性である。同じように、日本的な受動的立場を取る平等性においても、その平等の提供するものは、エゴと係わる平等性である。
自己実現を誰もが行える平等社会はなかなかやってはこないが、マルクスの唱えた共産主義社会は、まさに自己実現を誰もが達成した中から生まれてくる社会ではなかっただろうか。その理想的な社会が、エゴと係わってしまったところに共産主義の悲劇が生まれたように思える。資本主義社会では、経済に活気ができ、少なくともこれまでの歴史を見る限り成功しているように見える。しかし、その資本主義も、富、地位、名声、権威といったものを求める社会であり、そこでの平等性は、それらを求めようとする闘争のスタートラインが平等ということであって、そこには、必ず勝者と敗者とが生まれてくる。結果からみる限り、そこには、不平等が生まれてくるのである。
このように、平等が示す概念にも、進化の歩みがあって、外の世界において共通のものを求める社会の中での平等性から、自己実現を果たそうと努力し、さらに自己実現を果たした後、一人ひとりが持つ自己の芽を自由に伸ばすことの出来る機会が等しく与えられるという平等性へと進化していくのではないのだろうか。ただ、それまでの道のりは、はるか人類の先に延々と続いているようにも思える。
次回の開催を5月28日(月)とした。
以 上
- 新しい記事: 第79回 「生きることの意味」
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