- 2005-04-09 (土) 22:31
- 2000年レポート
- 催日時
- 平成12年5月12日(金) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 広野、水野、下山、市川、大原、松本、吉野、肥野、望月
討議内容
今回新たに、吉野さんと肥野さんが参加してくれました。吉野さんは元々看護婦をされていましたが、現在は、地域高齢社会開発研究所を経営されています。学生時代は陸上の選手として活躍していましたが、現在はそれらからも離れてしまっているとのこと。肥野さんは、ベルシステム24総合研究所に勤務していて、趣味は、三国志などの戦時小説を読むことだそうです。二人の女性が、新たな風を吹きこんでくれることを期待しています。
今回は自己実現について議論した。議論に参加された何人かは、自己実現ということをあらためて考えてみると、はたして自己実現というそのもの自体があるのか疑問に思えてくるという。自己実現など言葉だけのもので、実際には、日々をしっかりと生きていることそのことが自己実現ということではないだろうかと。そして、普通の主婦にしても、農家の人の中にも、自己実現などという言葉など知らない人達が、生き生きと力強く生きている。これらの人達こそ、自己実現できている人達ではないかという。はたしてそうだろうか。
また、一方で、自己実現とは、一生かかって求めるものであり、その方向に向かって努力している日々こそ、自己実現へ向かっての営みであるという。自己実現とは、生きていて得られるものではないのだろうか。
時として、私達は、第三者を自己実現できている人としてみることがある。オリンピックで金メダルをとった人達、政治家や芸術家、さらには会社の社長さんや芸能人など、自己実現できている人であるとみることもできる。でもはたしたこの人達が自己実現できていると言えるのであろうか。大会社の社長さんが、禅寺にこもったり、社長の席を譲り、作家としての人生を歩み始めたりする人もいる。何か具体的には分からないけれども、私達の心の中には、世俗的世界の中では求めきれないものがあり、その求めきれないものこそ自己実現へ向かわせようとしている力のように思える。
自己実現は、反省から始まるという人もいる。市川さんは、ある年まで、賭事に夢中になり、お酒を飲み、奔放な生活に浸っていたという。ところが、肺を患い、生きることの意味をあらためて考えさせられるという反省の機会が得られたことにより、奔放の生活から離れ、まじめな人生を送ることになったとのこと。そして、現在は、人のために人生を捧げるという営みの中に、自己実現へ向かっての営みがあるという。確かに、自己実現への道は、それまでの本能のおもむくままに過ごしていた快楽的な生活に、反省をせまられることから始まるのかもしれない。反省するということは、人間自身の中に、誰から教わったのではないけれども、善と悪という物差しがあって、善的方向に向けさせようとする力が働いているのではないだろうか。親鸞が述べた「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉があるが、この言葉にも、反省ということが、自己実現的世界に人を導く大きな力となっていることを示しているものと考えられる。悪人であるから、その反省する心は無意識のうちに強まり、善人よりもより強く、現在の生活を否定し、自己を確立させる方向へと向かう力を生み出させるのかもしれない。
自分が一体何を本当にやりたいのかが分からない若者達が増えている。フリータと呼ばれる若者達の急増は、世の中の物質的豊かさと相まって、心の満たされなさの現れのように思える。物のなかった時代、人は、物を得ることの中に喜びを感じ、その喜びを恒久的な喜びとして感じさせるために、新しい物、便利な物をつぎからつぎへと求め、手に入れてきた。その度に、人は喜びと幸福を掴んだかの錯覚に陥っていたのである。ところが、飽くことなく物を求め、その後に生まれてくる心の満たされなさを感じるにつけ、本当の喜び、本当の心の充実は、物を求めることの中にはないことが分かってきたのである。そして、物や形といった具体的に見える世界の中に求めるものがあるのではなく、心の中に何かが秘められていることを無意識のうちに感じ始めているのではないだろうか。そして、その無意識のうちに感じている心の中のくすぶりを、自己実現的世界と感じとり、本当の自分がそこには秘められていると期待しているのだ。
はたして、自己実現は生きているこの世の中で掴み得るものなのだろうか。議論したメンバーの中には、昔は、自己実現的世界の存在を感じてはいたけれども、現在では、そんなものは幻想に過ぎないのではないかと感じ始めている人が何人かいる。はたして、自己実現の世界は幻想なのだろうか。
進化と自己実現とを重ね合わせてみると、自己実現の存在が予想できる。生命の進化の中から、人類は意識する世界を獲得した。そのことによって、喜びと、幸福とを感じることができるようになった。しかし、その反面、苦しみも生まれてきた。意識のない世界では、病気になることの不安も、死への恐怖も生まれはしなかった。意識の誕生は、人類に、喜びと悲しみとをもたらした。しかし、この喜びと悲しみとを照らし合わせてみると、刹那的な喜びよりも、恒久的な苦しみ、不安、恐怖といったものの方がより強く心を支配していることが分かる。生命の進化が生みだした意識が、人間に苦しみを与えるために生まれてきたものとは考えられないのである。意識の誕生は、苦しみを乗り越えて、恒久的な幸せを人間にもたらそうとしているのではないだろうか。そして、その恒久的な幸福の世界と係わるものが自己実現の世界なのではないだろうか。反省がもたらす自己実現の世界は、苦しみの中に自らが飛び込むことによって、新たに生まれてくる世界のような気がする。そして、その世界を実現するためには、意識が知恵を活性化させることが必要なのだ。
人類が手にした意識は、生命の持つ創造性を自ら活性化させる力を生みだした。そのことによって、人類は、言葉と道具を手に入れ、豊かな社会を築いてきた。いま、私達が直面している自己実現への道は、人類に与えられた意識によって、自ら意志的に知恵を獲得していくことの中にあるのではないだろうか。すなわち、心のもやもやとした満たされなさは、生命が、意志的に知恵を磨くことを暗黙の内に促していることなのである。そして、自己実現の世界は、受動的に与えられるものではなく、一人一人が自らの努力によって、知恵を磨き上げることの中から生まれてくるように思うのだが。
次回の開催を7月7日(金)とした。
以 上