- 2005-04-09 (土) 22:52
- 2002年レポート
- 開催日時
- 平成14年5月29日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 村澤、広野、塚田、土岐川、山崎、水野、下山、内田、吉野、望月
討議内容
今回は表現するということについて議論した。私達は、日常様々な形で何等かな事柄を表現している。あるときには意識的に表現することもあるであろうし、ある時には、無意識のうちに表情や態度といったことで、自身の内面の世界を表現していることもある。ただ、意識的であれ、無意識的であれ、我々が表現することの中には、我々自身の気付いていない無意識の世界が表現されていることは確かである。
私達が意識した表現の中には、化粧、茶髪に代表されるような髪形、衣服といった直接自身の身と係わり、そのものが自分自身であるといったものから、バッグや車といったように、直接自分の身と係わりはしないけれども、自己表現と深く係わってくるものとがある。直接自分の身と係わることの表現は、自身の性格やら、嗜好やら、センスの表現であり、個と個との係わりを無意識に感じて表現しているのに対して、直接自身の身と係わりはしないものの自己表現は、社会的な地位であるとか、ステイタスシンボルとしての自分自身を表現していて、個と個の係わりというよりもむしろ社会と自分との係わりを表現したものである。同じ表現ではあるけれども、そこには、微妙な差異が感じられる。
以上の表現は、個と個との係わりであれ、社会との係わりであれ、そこには、相手との係わりがあって表現されたものであるが、相手との係わりは意識の遠いところにあって、自分自身との係わりで表現されるものがある。絵を書いたり、日記や、エッセイ的なことを書いたり、あるいは詩を読んだり、俳句を作ったりという、その表現は、人との係わりというよりも、自然との係わりの中で、自分自身の内に生まれてくる感性模様を表現したものである。その表現するということの中には、自分自身でも気付かない何かを無意識に求めることから生まれてくるものと、求めるものはないけれども、感激や感動的なもので自身の心が高揚し、その高揚した心をどうにかして形あるものとして表現したいという衝動から表現しているものがある。いずれにしても、これらの表現は、心の中に生まれている表現したいというエネルギーからであるからである。
それでは一体、そのエネルギーは、どうして生まれてくるのであろうか。勿論、このエネルギーは、動物にも植物にもあって、それが動物なら動物の行動となり、植物なら植物の成長となって表現されているのであるが、人間には、動物や植物の持つ内的エネルギーの他に、文字や絵、言葉や道具といったものによって表現しようとする人間特有の内的エネルギーがある。それは、動物や植物が生きていくための欲求として生まれてくる食欲や性欲などと係わる行動表現と同じように、人間に特有な生きるための欲求から生まれてきているのであろう。すなわち、人間にとって、何かを表現するということは、人間として生きるための欲求に他ならない。そして、その表現の中には、感動や感激を表現することに見られるように、自身の感動や感激を他の人と共有したいという欲求に根ざしているものと考えられる。これに対して、もう一つの表現するということ、すなわち自身の未知なるものを探求しようとする欲求は、表現すること自体が目的ではなく、表現することは、新たな未知なる世界を生み出す原動力になっていて、表現することで、未知なる世界に意識の明かりを灯していくことになっているのであろう。
哲学することの中にも、目的的な哲学、すなわち、初めからある具体的な目的があって、それを探求しようとするものと、生きることの意味を考えたり、本当の幸福を考えたりというように、始めから具体的なものがなく、暗中模索の中で、でも何かを表現しないと居たたまれなくなって表現しているものとがあろう。前者の哲学は、自然科学の研究志向とよく似ている。そこには、なぜだろうという具体的な目標があり、その事象そのものはすでに目の前の世界に展開されている。宇宙の彼方はどうなっているのであろうとか、宇宙はどうして誕生したのかということに対する探求は、宇宙そのものが目の前に厳然と存在している。それは、好奇心とも言える心から生まれてくる探求であり、表現である。これに対して、生きることの意味を求めたり、本当の幸福を求めたりする哲学は、生きるとは何かという命題は確かに具体的に与えられてはいるけれども、理性とは何かとか、認識とは何かとか、意識とは何かといったように、目の前に具体的な事象そのものは存在していない。生きることの意味が分からないから、それはまだ存在していないということであるが、その意味を求めて考えていくというのは、未知なる世界を探求していることであり、そこでの表現は、求めるものを具体的にとらえた結果としての表現ではなく、求めるものを得るために必然的に生まれてくる表現である。そこでは、その表現されたものに価値があるのではなく、そうして表現することによって、次第に明らかにされてくる未知なる世界に価値がある。すなわち、そこではプロセスとしての表現そのものには価値がない。それは、本当に求めようとするものを求めるための手段であるだけである。これに対して、目的的な哲学では、表現されたものそのものにも価値がある。勿論、目的を明らかにすることも価値であるが、その目的に達するためのプロセスの中から生まれてくる表現されたものにも価値がある。
このように考えてくると、表現するということの中には、いくつか異なったエネルギーが関与していることがわかる。一つは、外界からの刺激によって生まれてくる喜怒哀楽を何らかの形によって表現したいという欲求であり、それは、人と人との係わりによって生まれてくる。そして、その喜怒哀楽の中での表現は、喜びや楽しみといった快適な心の表現は、他の人もその喜びや楽しみの世界を共有してもらいたいという共鳴する世界がある。これに対して、怒りや哀の表現は、他者との間に共鳴することを求めるという表現よりもむしろ、自身を孤立化させる表現であるように思われる。すなわち、私達が表現することの中には、相手と共鳴したいという全体で一つという世界を作りたいという無意識の欲求に基づくものと、全体から自身を孤立させ、個としての世界を作りたいという無意識の働きとがあるようだ。それは、物理の世界にある引力と斥力との関係にも似ている。
二つ目の表現は、未知なるものを求めたいという好奇的な欲求に基づく表現であろう。そして、三つ目の表現として、先に見たように、表現することが、自身の無意識の中にある真なる自分を求めるための手段としての表現である。ただ、好奇心に基づく表現も、新なる自分を求めるための手段としての表現も、共に、人間にさらなる進化を遂げさせようとする内的力であるように思える。すなわち、表現するということは、何等かな形で、生命の進化と係わっているということではないだろうか。
表現することの意味には、いくつか異なった衝力が係わっているが、その表現される仕方に関しては、同じ心をもつ人間同士であっても、文化の違いによって、表現の仕方が異なってくるし、本当に表現したいものは、言葉によっては伝わらないことなど、いくつかの特徴がある。そして、禅の世界で不立文字として表現されているように、本当に理解した者同士では、言葉を用いなくても理解し合える世界が生まれてくる。だから、逆に、皆が皆、自分自身のエゴ的な考えを元に行動し、そのエゴ的なものがエスカレートするにしたがって、自己表現する手段は増えるけれども、その心を共有することができなくなっている世界が広がってきているものとも考えられる。情報化時代、様々な表現手段が開発されてきているが、自己を表現する手段は豊にはなってきていても、それを共有できる心の世界は、益々希薄になってきているようにも思える。表現する手段としての様々な情報技術が、個と個とを孤立させるための手段として働くのではなく、全体で一つとする融和の世界を作るための手段として働いてくれればいいのだが。
次回の打ち合わせを平成14年7月25日(木)とした。
以 上