- 2005-04-09 (土) 23:40
- 2004年レポート
- 開催日時
- 平成16年11月26日(金) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 広野、塚田、土岐川、奥田、山崎、水野、市川、下山、松本、井桁、松本(忍)、佐藤、望月
討議内容
今回は、松本(忍)さんが新たに参加してくれました。松本さんは、本会にすでに参加されている松本圭市さんのお姉様で、現在大津市で医療関係の仕事に携わっています。音楽鑑賞、スポーツなら何でも好きという多趣味の持ち主です。好奇心に満ちた感性で、新たな考えを披露してくれることを期待しています。
さて、今回、人間文化研究会は100回という大きな区切りを迎えました。思い出してみますと、ちょうど14年前の1990年11月に第1回を開催し、これまで様々な問題について議論してきました。その議論テーマは、土岐川さんに作っていただいた100回記念ポスターの中に列記されています。本会の研究会の趣旨について、これまで何度か多くの方々から質問され、そのたびに曖昧な答えを提供していましたが、今回、100回記念大会を開催するにあたり、冒頭において、私(望月)の考えを述べさせていただきました。以下にその概要を紹介いたします。
言語学者であるチョムスキーが、言語の研究に対して、普段当たり前に使っている言葉の中に、なぜという疑問符を打つと、そこから新たな世界が生まれてくることを述べています。チョムスキーは、その研究態度から、人類の心の奥には、どのような言語を用いても、人間同士がコミュニケーションできる共通な生得的な能力が秘められているとして、それを普遍文法と名付け、言語研究の世界に大きな波紋をもたらしました。また、禅仏教学者の鈴木大拙は、その著『日本的霊性』の中で、人間の心の成長に関して、当たり前のものを一旦当たり前ではないとして、再び当たり前に帰るとき、人間の心の成長があると語っています。当たり前だけなら、犬も猫も同じである。当たり前のものを一旦当たり前でないとして、再び当たり前に戻るところに、すなわち、否定の上の肯定に人間の心の成長があるとしています。
日米の二人の偉人が、共に、人間の心の成長は、普段当たり前に思えることを、一旦当たり前ではないとして考え、そこから当たり前のものとしてくるところから生まれてくるとしていますが、人間文化研究会の目的は、まさに、普段当たり前に思っていることを議論の場の中で、当たり前ではないとして議論し、そこから、新たな当たり前の世界に気付いていくことにあるように思います。そこから、参加者一人ひとりの心の成長が生まれてくることを願いつつ、議論を進めているというのが正直なところであると思います。
ということで、第100回記念大会は、普段当たり前としている「力」について議論を進めた。
力という言葉で思い出されるのは、なんといっても物理的な力であるが、我々の日常のコミュニケーションを振り返ってみると、物理的な力として、力という言葉を用いることよりも、精神力、意志力、生命力、努力、協力といったような、人間の心の世界とかかわって用いていることの方がはるかに多いことに気付く。
生命力は、精神的にも、肉体的にも係わってくる力であるが、共に共通していることは、調和を生み出している力ということであろう。精神的にバランスが取れている時には、生き生きとした精神が宿ってくるし、生理的にバランスが取れている時には、肉体的にも健康な時である。これらのことを考えると、力の源には、調和を誘起するものが秘められているということ、言葉を変えて表現すると、調和を生み出す源が力ということになってくる。
我々が、自然に接したり、芸術作品に接したりして、美しさや、心の落ち着きを感じるのは、そこに調和したものが表現されているからであろう。その調和したものを生み出しているのが力であり、力はまさに人間の直感が美しいとしてとらえる形を生み出す源であるように思われる。そして、それは、もっとも不安定なところにありながら、安定を保とうとする綱渡り師の営みにも似ている。一本の綱の上に立つという、もっとも不安定な状態の中で、綱渡り師のバランス感覚が、安定な状態を生み出しているのであり、そこには、環境を含めた全体を一とする統合する力が働いている。そのバランスが崩れた時、綱渡り師は、綱から落ちて命を失ってしまうが、それと同じように、バランスが崩れる時、精神的にも、肉体的にも病となってしまう。そういう意味からすると、力とは、生命維持のための調和を生み出す源であるといえよう。
あるものとあるものとが結びついて一つのものになる時、元々のものを足したものよりも大きなものを生み出してくる時と、逆に、小さなものになってしまう時がある。日本中で、町村合併や、企業の合併が行われているが、その合併によって、より大きく発展していく組織と、逆にいさかいの中で効率が悪くなってしまう組織が生まれてきている。前者は、調和を生み出す力によって結ばれているのに対して、後者は、斥力のように、全体をばらばらにしてしまう破壊的な力が働いている。こう考えると、力は、一つの種類だけではなく、先に述べたように、調和を生み出す力の他に、破壊を生み出す力がありそうだ。
調和する力と、破壊する力とをもう少し突き詰めていくと、調和する力は、個々の営みを、全体の中でバランスさせながら営ませようとする力であるのに対して、破壊する力は、個々の営みだけを強調する力であるといえよう。すなわち、調和する力は、全体としての意志と係わっているのに対して、破壊する力は、個の意志と係わった力ということになってくる。それは、この宇宙を形作っている物理的な力においても見られる。太陽系を生み出しているのも、惑星間に働く引力と、個々の惑星が自分自身の意志による動きとのバランスの中で生まれてきている。引力だけの世界であれば、この宇宙は、ブラックホール的な存在となってしまい、生命そのものの進化もなかったであろう。宇宙が、生命を育む世界になっているのは、そこに、引力の他に、個々体に与えられた個の意志としての直線運動があるからである。太陽系を形作っているものは、惑星間に働く引力と、個々の惑星が直線運動をしようとするものとのバランスである。
そして、時として、彗星が現れたりして、惑星と衝突したりすると、全てのバランスが崩れ、新たな系が生まれてくる。すなわち、力は、全体を一つに統合する力の他に、その全体を破壊して、新たな世界を生み出す力とを秘めているということだ。統合する力しかなければ、そこには発展がない。破壊する力があるから、新たな世界が生み出されてくる。そして、その破壊する力の中に、新たなものを生み出す創造力が秘められている。
物理の世界では、これまでに四つの力が発見されている。その四つとは、引力、電磁力、核力、そして、弱い力であるが、このうち、引力、電磁力、核力は、共に物と物とを結びつける力であるのに対して、弱い力だけが、その結び付けられたものを破壊し、新たな物質を生み出す力として作用している。そこには、調和と破壊とによる生命の営みの原点があるように思える。そして、これら四つの力は、究極では、一つの力にまとめ上げられるものと考えられている。すなわち、力には、いくつかの種類があるけれども、その源は、一つの力から成り立っているということである。このことは、調和も、破壊も含めて一つとする生命の働きがその源にあるように思われる。
その調和と破壊という観点から、我々の心の世界を覗いてみると、我々の心の中に、安定さを求めるのと同時に、その安定さを壊して、さらに新たなものを求めようとする創造的な営みがあることが分かる。受精卵細胞の働きを見ても、一つの細胞が二つになる時には、始めの細胞が破壊された上で新たな細胞が生まれてくる。そうして、調和と破壊との繰り返しの中から、一個の生命体が生まれてくる。まさに、生命活動というのは、調和と破壊の上に成り立っているということである。そして、その調和と破壊のさらに根源には、全体を一つとして統合する創造的な統合力があり、それが心の中では愛と感じているものなのではないだろうか。
次回の討議を平成17年1月28日(金)とした。
以 上