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第101回 「道」

開催日時
平成17年1月28日(金) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、土岐川、桐、下山、吉野、望月

討議内容

今回は「道」と題して議論した。道とは一体なんだろうか。日本古来の芸能や技能には、道とつくものが多くある。茶道、華道、柔道、剣道といった身近なものから、日本人魂を表現したものとしての武士道まである。今回の出席者の中には、道とは、ある目的に到達するためのプロセスではないかと考えている人がいる。それに対して、道とは、プロセスではなく、人間として、精神的に求めようとするある真実、到達点ではないかと考えている人もいる。

日本人が、茶道や華道といったように、芸能に対して道をつけるようになったのは、儒教や仏教の影響によるものと思われる。お茶というのは、中国の寺院で、仏様にお茶を供えることの必要から起こっているので、お茶は、仏教との係わりが強い。それが日本に伝わったのは、鎌倉時代の終わりごろであり、それが茶道となったのは、室町時代の中ごろ、能阿見と珠光という茶人によって始められたようだ。茶道というのは、茶の道といわれ、茶を介して人と人との心を結び合わせる人の道ということらしい。それは、道徳とも重なり合ってくる。すなわち、お茶を通して、人と人との心のふれあいを楽しみ、人間平等の相互愛を培うためであるらしい。

茶道を茶の道として、のを入れてみると、道の持つの意味がはっきりとしてくる。そこには、茶を通して人として生きる道に導こうとする、まさに道徳と係わった人の道がある。人として生きるための道、それは、儒教に表現されている仁儀礼智と相通じるものがある。武士道にしても、そこには武士が心得なければならない人としての道がある。新渡戸稲造の著書「武士道」には、「武士道は、道徳的原理の掟であって、武士が守るべきことを要求されたるもの、もしくは教えられたるものである」と記されている。これらが語る道とは、まさに人として生きていく上で、心がけなければならない道徳としての人の道である。すなわち、道とは、人としてあるべき営みをするための導きであるということになる。修身であるとか、教育勅語といったものは、全て人の生きるべき道への手引きとして書かれたものであろう。

ただ、導きとしての道は、その道の行き着く先がある。全ての道はローマに通じるという道のように、道の行き着く先には、ある目的とするものがある。孔子や孟子によって描かれた道は、先に述べたプロセスとしての道ではなく、人間が究めるべく最終的な精神世界を表現したもののように思える。道を極めるという言葉に代表されるように、道は、人間の精神が到達するべくある崇高なる世界を表現したものではないだろうか。

論語の中に「朝に道を聞きては、夕べに死すとも可なり」という語りがあるが、ここで表現されている道は、仏教でいうところの悟りの境地と相通じるものがあるように思える。その境地から見ると、生命は不滅であり、悠久な命が今生きているその当体の中に脈々と流れている。そのことを覚知できたら、時間というものはなくなってしまう。ところが、凡人は、その境地に達することができず、時間に縛られた世界の中で、年老いることに憂いを感じ、死することに恐怖を抱く。たえず生と死の狭間の中で生きていた武士達が、死を超越したいとして、禅の世界に入っていったのはむベなるかなであろう。そして、その禅が求めようとするものこそ、悠久な生命の覚知であり、道であったにちがいない。だから、先に述べた武士道としての道には、確かに、新渡戸稲造が表現しているように、人の道への導きとしての意味合いがあるが、その中にあって、さらに深いところには、死を超越する悟りの世界を意味する道が秘められているのではないだろうか。

宗教的な世界には、修行がある。その修行は、悟りの境地を得るためのものであるが、そこには、いくつかの戒律がある。その戒律こそ、悟りとしての目的地に到達するための導きであり、プロセスとしての道である。それは、まさに、人の道としての道徳であり、新渡戸稲造が表現している武士の道と共鳴するものがある。これに対して、目的地としての悟りの境地がある。道に込められたもうひとつの意味合いがそこにある。

プロセスとしての道は、言葉によって表現されるのに対して、目的地としての道は、言葉では表現できない世界である。したがって、前者は、先に述べたように、修身とか教育勅語といったもののように、言葉によって表現され、それを知識として習うことができる。「論語読みの論語知らず」と表現されるように、この道は、行動が伴わなくても知識として学ぶことができる。これに対して、後者の道は、知識として学ぶことはできず、体得するしかないものである。このように、プロセスを意味する道は、その道を歩んでいる人の態度などによって客観的に見ることができるのに対して、目的地としての道は、主観の世界で感得できるものであって、それを客観の世界に見せることはできない。道が、新渡戸稲造の表現する武士道となったり、道徳となっているのは、それを客観の世界で具体的に見ることができるからである。このように、道には、崇高なる人間性へと導くためのプロセスの意味合いと、悟りという言葉によって表現されるような宇宙の真理を体得した精神世界という二つの意味合いが込められているようだ。

次回の討議を平成17年3月10日(木)とした。

以 上

コメント:1

土岐川修一 05-03-21 (月) 22:17

人文研から時間をおいて思いついたことを、人文研場外編として投稿します。
道について考えることを通して、あることに気がついた。それは、道について考えている自分を、別のもう一人の自分が観察しているということである。今回、道とはプロセスか到達点かという定義の選択で心ならずもディベートといった形に自分がはまってしまったのである。自分はとりあえずはプロセスの中に道があるように感じたことで、プロセスの道を説明しようとした。しかし、自分の本心はそれらの選択肢のどちらでもないところにあったのである。頭の中には、垂直と水平の構造が作り出す言葉を超えた立体的なイメージがあったが、それは、その場で会の出席者に通用する言葉で討議の場に提示するには、納得のいく発酵時間を要した。そこで限られた時間で語りあうという条件のフレームでは、どんな形でも語ることから始めるアイエヌジーが何かを生み出してくれることに期待することでディベート的な行動をとったと思われる。その後、望月さんの報告レポートを読ませていただき、そのとき形にならなかった思いを整理することができたので遅ればせながら投稿してみることにする。
まずは、垂直のイメージであるが、「わが道」を無我夢中で極めようとする求道者は、垂直思考といえる。わき目もふらず究極まで進み、そこに何かを見ようとする、あるいはそこに広がる何かとの一体感に身を任せるのである。そのやり方は求道者独自のもので、誰にでも適応できる一般的なものではない。求道者は、自分の道のパースペクティブに広がるものを誰に伝えることもできない確かさを伴って味わうのである。それは言い換えれば、その求道者は別の求道者が味わっているものに触れることが困難であるということでもある。ここで論理の束縛にとらわれない感覚では、道の世界はそんな陳腐なものではないと考えられる。したがって、この考え方だけでは道の豊かな世界にたどり着くには限界があるといえる。その考えに内在する貧しさは、道を個人的な視点でとらえていることに因るのである。道が個人的なものであるということは、100人の求道者がいれば、100の道があるということである。王道を行くやり方もあれば、裏のけものみちもから極めるやり方もあるのである。ここではそれらの総体を私たちの豊かな財産として味わうことができる視点を獲得する必要があるのである。それが水平のイメージである。道には流派がある。宗教に宗派があるようにあらゆる諸芸にも流派がある。それらは、ただ存在しているだけではない。各流派は、理を競い、法を競い、美を競いながら道を磨き上げていくのである。これこそが文化である。道にかかわるすべての社会の隅々にまで力が行き渡り、常に新たな何かを獲得しようとする生命力が、個人の枠を超えて面的あるいは立体的に充満し、それが個に還ってくるというイメージである。そのたくましい文化的なイメージはきわめて日本的なイメージに基づいていることを書き添える必要がある。それらの道は、頭の中で描く普遍性の探求とは性格を異にするもののように思えるのである。多くの流派が出てくることは、自分の手や身体を通した特殊な体験や経験に基づくものを通した強調行為であって、新たな何かを創出する行為であり、己を深く見つめる行為や個性的な道を求める行為が社会財産につながる健全な仕組みがそこに見えるのである。それは、日本の伝統が築いてきた財産であったように思えるのである。しかし、一方で近年の日本社会が、個々の価値観を汲み上げるのではなく、一律な価値観ですべてを塗り固める方向に変貌していることを危惧している。

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