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第102回 「生命」

開催日時
平成17年3月10日(木) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
桐、山崎、下山、吉野、望月

討議内容

今回は「生命」と題して議論した。生命とは一体なんだろうか。植物、動物、そして人間と、この世の中は生物であふれているけれども、その生物が秘めている生命とは、一体なんであろうか。科学者は、生命をいくつかの特性で定義している。それらの特性を列記すると、細胞のような入れ物を持っていること、自己複製、自己増殖できること、自己維持機能を持っていること、すなわち代謝する能力を持っていること、そして、進化する能力を持っていること。これらは、科学者が生命として定義しているものであるが、そこには、生物を客観的に捉えたところから生まれてくる機能的なものが表現されている。その機能的なものを司る最も重要なものにDNAがある。確かに、DNAは、細胞という器の中に存在し、それがあることによって、生命体は、自己複製も、代謝も、そしてそれらを遺伝として維持していく自己維持機能を持つことにもなる。

しかし、確かにそれらは生命のある側面を表現しているのかもしれないが、一般の生活者が生命を考える時、単に科学者が定義するようなものを生命とは思ってはいない。むしろ、科学者のとらえる物質的な生命観よりも、喜怒哀楽であるとか、悩み、生きることの意味を考えるといった精神的なものに生命との係わりを強く感じているのではないだろうか。どんなに肉体だけの生命が維持されたとしても、精神世界が貧しいものであったり、生き甲斐を見い出せない生き方であったりすると、それは、生命のない世界を生きているような感じがしてしまうのではないだろうか。

確かに、生命には、科学者の定義するような能力が備わっているから、それによって健全な肉体が維持されることになるが、それと同時に、精神世界もまた切り離すことのできない大切なものであることは理解できる。ただ、科学技術の発達によって、人間は、肉体と精神との乖離に益々直面するようになってきている。臓器移植、クローン生物の誕生、あるいは遺伝子治療といった最先端医療の登場によって、肉体的治療が、新たな精神的な負担を生み出している現実がある。臓器移植を受けた人の中には、治療後何年かして、自分の中に自分ではないもう一人の人間が存在していることを感じ、極めて不快な生活を日々体験している人もいる。また、特殊な遺伝病を抱えた人の中には、遺伝子治療を受けるために、毎月高額な医療費を払い続けなければならなくなり、それが精神的負担になっている人もいる。生命を維持しようとする欲求が、逆に、精神的負担を加速し、何のために生きているのかを自問自答することにもなってしまう。

ひょっとしたら、人間は、生命のなんたるかを知らずに、生命とは違ったものをひたすら追い求めているのではないだろうか。科学のしてきたことは、生命体を分解し、その分解した中から生命をとらえようとしてきた。しかし、私たちの体は、はたして分解された部分の寄せ集めだけで成り立っているのであろうか。確かに、私たちの身体は、心臓、肝臓、腎臓、胃臓、肺臓といった臓器が結び合わされて形作られてはいるけれども、はたして部分の寄せ集めだけで成り立っているのであろうか。科学は、部分の寄せ集められたものとして、臓器移植の有効性を主張するけれども、先に述べた臓器移植をされた人の心の世界では、必ずしも部分の寄せ集められた世界だけでは作られてはいない。生命とは、部分に分解することで失われてしまう何かのような気がする。それは、全体で一つの世界を作り上げている何かであるように思える。そして、その全体で一つの世界を、私たちは、私たち自身の心の世界で感じ取っているのではないだろうか。

確かに私たちは、肉体の世界では、臓器、手や足、さらには爪や髪といったように、自分の身体を部分としてとらえている。しかし、心の世界を見つめてみると、私たちは、それを部分に分解してなどいない。今を生きている自分が、全体で一つとしての自分であると直感的に感じている。私は私として、一つの心の世界、全体で一つの世界を持った私である。この肉体と精神、部分と全体といった係わりから、生命の有限さと、生命の悠久性とが生まれてきているように思える。

私たちは、確かに客観的な世界の中で死に接し、いずれわが身も死の世界に行くものと考えているけれども、それは、知らず知らずのうちに、理性によって作り上げられた部分としての時間が支配する世界での幻想であって、本来、生命には死というものなど存在しないのではないだろうか。生命とは、私たちの心はもちろんのこと、森羅万象の中を貫き、始めも終わりもなくあり続けているもののように思える。そして、その中に創造性を秘め、その創造性によってたえず新たな世界を作り出している。それは、見る世界からすれば変化の連続ではあるけれども、それを変化として見るのは、私たちの理性の性向であって、生命から見れば、その変化は単なる創造性の結果であって、創造性を秘めた全体で一つとしての生命はあり続けているものなのではないだろうか。たえず変化する世界の源に、悠久なものがある。その悠久なものがあるから、変化を無常として感じ取ることができるのではないだろうか。無常と常住、その二にして不二の世界こそが、生命そのものであるように思える。まさに不易流行こそ、生命そのもののように思えるのだが。

次回の討議を平成17年4月28日(木)とした。

以 上

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