2005年レポート
第106回 「祈り」
- 2005-12-06 (火)
- 2005年レポート
- 開催日時
- 平成17年11月25日(金) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 祈り
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 山崎、下山、吉野、小沢、望月
討議内容
今回から、新たに小沢さんが参加してくれました。小沢さんは、若いお母さん達を中心に、子育てなどの問題を自由に語り合う会を計画されていて、語り合う会としての人文研に興味をもたれての参加ということです。また、大学で現在心理学を学んでいるとのことで、豊富な経験と知識とで、ユニークな意見を述べられることを期待しています。
今回は「祈り」と題して議論した。親が宗教とかかわっていて、子供の頃から神や仏様を祈りの対象としてきた人はともかくとして、そのような教育に直接接することのなかった人でも、いつの頃からかは分からないけれど、不安に襲われたり、病気になったりしたようなとき、その不安から開放されたい、病気が治ってほしいと、心の中で手を合わせて、見えざる何かに祈りをささげた経験の一つや二つはあるであろう。また、試験の合格を祈願したり、家族が幸せであることを祈願したりと、夢の実現や幸福を願って祈りをしたりもする。これらの祈りの対象は一体何なのであろうか。そして、祈りとは、人間が本性的に持っている何かなのであろうか。
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第105回 「徳」
- 2005-10-01 (土)
- 2005年レポート
- 開催日時
- 平成17年11月25日(金) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 祈り
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 山崎、下山、吉野、小沢、望月
討議内容
今回から、新たに小沢さんが参加してくれました。小沢さんは、若いお母さん達を中心に、子育てなどの問題を自由に語り合う会を計画されていて、語り合う会としての人文研に興味をもたれての参加ということです。また、大学で現在心理学を学んでいるとのことで、豊富な経験と知識とで、ユニークな意見を述べられることを期待しています。
今回は「祈り」と題して議論した。親が宗教とかかわっていて、子供の頃から神や仏様を祈りの対象としてきた人はともかくとして、そのような教育に直接接することのなかった人でも、いつの頃からかは分からないけれど、不安に襲われたり、病気になったりしたようなとき、その不安から開放されたい、病気が治ってほしいと、心の中で手を合わせて、見えざる何かに祈りをささげた経験の一つや二つはあるであろう。また、試験の合格を祈願したり、家族が幸せであることを祈願したりと、夢の実現や幸福を願って祈りをしたりもする。これらの祈りの対象は一体何なのであろうか。そして、祈りとは、人間が本性的に持っている何かなのであろうか。
- 開催日時
- 平成17年9月20日(火) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 徳
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、下山、松本、望月
討議内容
今回は「徳」と題して議論した。徳ということに関して考えていくと、なかなかその本質がつかめないことが分かってくる。これまでのテーマと違い、徳自体を自分自身で感じることがないからなのかもしれない。徳とは、道徳とか、人徳とかいった言葉によって間接的にその有り様を感じてはいるけれど、徳そのものを日常生活の中で感じることは極めて少ない。
徳という漢字の成り立ちを考えると、素直な心に従って行動することが起源らしい。ただ、子供の心も素直であるから、その子供の素直な心に従った行動に対して、あの子は徳があるといった表現はあまりぴんとこない。徳には、社会的な規範を熟知した大人が、子供のような素直な心に従って実社会の中で行動していく時に現れる何かなのであろう。
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第104回 「楽」
- 2005-08-09 (火)
- 2005年レポート
- 開催日時
- 平成17年11月25日(金) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 祈り
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 山崎、下山、吉野、小沢、望月
討議内容
今回から、新たに小沢さんが参加してくれました。小沢さんは、若いお母さん達を中心に、子育てなどの問題を自由に語り合う会を計画されていて、語り合う会としての人文研に興味をもたれての参加ということです。また、大学で現在心理学を学んでいるとのことで、豊富な経験と知識とで、ユニークな意見を述べられることを期待しています。
今回は「祈り」と題して議論した。親が宗教とかかわっていて、子供の頃から神や仏様を祈りの対象としてきた人はともかくとして、そのような教育に直接接することのなかった人でも、いつの頃からかは分からないけれど、不安に襲われたり、病気になったりしたようなとき、その不安から開放されたい、病気が治ってほしいと、心の中で手を合わせて、見えざる何かに祈りをささげた経験の一つや二つはあるであろう。また、試験の合格を祈願したり、家族が幸せであることを祈願したりと、夢の実現や幸福を願って祈りをしたりもする。これらの祈りの対象は一体何なのであろうか。そして、祈りとは、人間が本性的に持っている何かなのであろうか。
- 開催日時
- 平成17年9月20日(火) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 徳
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、下山、松本、望月
討議内容
今回は「徳」と題して議論した。徳ということに関して考えていくと、なかなかその本質がつかめないことが分かってくる。これまでのテーマと違い、徳自体を自分自身で感じることがないからなのかもしれない。徳とは、道徳とか、人徳とかいった言葉によって間接的にその有り様を感じてはいるけれど、徳そのものを日常生活の中で感じることは極めて少ない。
徳という漢字の成り立ちを考えると、素直な心に従って行動することが起源らしい。ただ、子供の心も素直であるから、その子供の素直な心に従った行動に対して、あの子は徳があるといった表現はあまりぴんとこない。徳には、社会的な規範を熟知した大人が、子供のような素直な心に従って実社会の中で行動していく時に現れる何かなのであろう。
- 開催日時
- 平成17年7月29日(金) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 楽
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、山崎、桐、下山、望月
討議内容
今回は「楽」と題して議論した。「楽」には、「らく」と「楽しい」という二つの響きがあるが、「らく」は主として、つらい状態からの脱出した時の感覚であり、「楽しい」は、気持ちのいいことが持続している状態であると下山さんの調べてくれた辞書には書かれているとのこと。
重い荷物を持っていて、それを誰か他の人に持ってもらったときなどは「らく」な状態であるし、疲れた身体を休めるために床についたような時も「らく」な状態である。「らく」には、先に述べたようなつらい状態から脱出した後の静的な状態がある。そして、それは、自分の身体が疲れた状態から解放されていく自己治癒的状態である。そこでは、外部の何かとかかわったり、外部の何かに刺激されたりといった、外的環境との係わりは少ない。
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第103回 「宗教」
- 2005-05-09 (月)
- 2005年レポート
- 開催日時
- 平成17年11月25日(金) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 祈り
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 山崎、下山、吉野、小沢、望月
討議内容
今回から、新たに小沢さんが参加してくれました。小沢さんは、若いお母さん達を中心に、子育てなどの問題を自由に語り合う会を計画されていて、語り合う会としての人文研に興味をもたれての参加ということです。また、大学で現在心理学を学んでいるとのことで、豊富な経験と知識とで、ユニークな意見を述べられることを期待しています。
今回は「祈り」と題して議論した。親が宗教とかかわっていて、子供の頃から神や仏様を祈りの対象としてきた人はともかくとして、そのような教育に直接接することのなかった人でも、いつの頃からかは分からないけれど、不安に襲われたり、病気になったりしたようなとき、その不安から開放されたい、病気が治ってほしいと、心の中で手を合わせて、見えざる何かに祈りをささげた経験の一つや二つはあるであろう。また、試験の合格を祈願したり、家族が幸せであることを祈願したりと、夢の実現や幸福を願って祈りをしたりもする。これらの祈りの対象は一体何なのであろうか。そして、祈りとは、人間が本性的に持っている何かなのであろうか。
- 開催日時
- 平成17年9月20日(火) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 徳
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、下山、松本、望月
討議内容
今回は「徳」と題して議論した。徳ということに関して考えていくと、なかなかその本質がつかめないことが分かってくる。これまでのテーマと違い、徳自体を自分自身で感じることがないからなのかもしれない。徳とは、道徳とか、人徳とかいった言葉によって間接的にその有り様を感じてはいるけれど、徳そのものを日常生活の中で感じることは極めて少ない。
徳という漢字の成り立ちを考えると、素直な心に従って行動することが起源らしい。ただ、子供の心も素直であるから、その子供の素直な心に従った行動に対して、あの子は徳があるといった表現はあまりぴんとこない。徳には、社会的な規範を熟知した大人が、子供のような素直な心に従って実社会の中で行動していく時に現れる何かなのであろう。
- 開催日時
- 平成17年7月29日(金) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 楽
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、山崎、桐、下山、望月
討議内容
今回は「楽」と題して議論した。「楽」には、「らく」と「楽しい」という二つの響きがあるが、「らく」は主として、つらい状態からの脱出した時の感覚であり、「楽しい」は、気持ちのいいことが持続している状態であると下山さんの調べてくれた辞書には書かれているとのこと。
重い荷物を持っていて、それを誰か他の人に持ってもらったときなどは「らく」な状態であるし、疲れた身体を休めるために床についたような時も「らく」な状態である。「らく」には、先に述べたようなつらい状態から脱出した後の静的な状態がある。そして、それは、自分の身体が疲れた状態から解放されていく自己治癒的状態である。そこでは、外部の何かとかかわったり、外部の何かに刺激されたりといった、外的環境との係わりは少ない。
- 開催日時
- 平成17年4月28日(木) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 宗教
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、山崎、下山、高須、大井、望月
討議内容
今回は「宗教」と題して議論した。討議を始める前に、参加者一人ひとりに宗教に対する印象を表現してもらった。それらを列記すると、何かを信じるもの、なんとなく胡散臭いもの、後ろめたいもの、死を連想させるもの、弱い自分の頼りどころ、バーチャルなもの、といった答えが返ってきた。
宗教の持つ意味を広辞苑で引いてみると、神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離された禁忌された神聖なものに対する信仰・行事とある。しかし、日本人の中を流れる宗教は、神聖なものに対する信仰というよりも、葬式であるとか、お盆であるとか、死者とかかわる印象が強い。だからであろう、宗教が、死と係って暗い、忌み嫌われるような印象をもつのかもしれない。ただ、これは日本人だけのことではないようだ。キリスト教にしても、教会には、十字架があったり、十字架にかけられたキリストの像があったりと、そこには死と係る暗い雰囲気が流れている。宗教が死と係っているものであることは、宗派に係らず共通しているものなのかもしれない。それは、死に対する恐怖、そして、その死の彼方にある見えざるものへの畏敬の念、とかかわっているからであろう。
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第102回 「生命」
- 2005-04-10 (日)
- 2005年レポート
- 開催日時
- 平成17年11月25日(金) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 祈り
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 山崎、下山、吉野、小沢、望月
討議内容
今回から、新たに小沢さんが参加してくれました。小沢さんは、若いお母さん達を中心に、子育てなどの問題を自由に語り合う会を計画されていて、語り合う会としての人文研に興味をもたれての参加ということです。また、大学で現在心理学を学んでいるとのことで、豊富な経験と知識とで、ユニークな意見を述べられることを期待しています。
今回は「祈り」と題して議論した。親が宗教とかかわっていて、子供の頃から神や仏様を祈りの対象としてきた人はともかくとして、そのような教育に直接接することのなかった人でも、いつの頃からかは分からないけれど、不安に襲われたり、病気になったりしたようなとき、その不安から開放されたい、病気が治ってほしいと、心の中で手を合わせて、見えざる何かに祈りをささげた経験の一つや二つはあるであろう。また、試験の合格を祈願したり、家族が幸せであることを祈願したりと、夢の実現や幸福を願って祈りをしたりもする。これらの祈りの対象は一体何なのであろうか。そして、祈りとは、人間が本性的に持っている何かなのであろうか。
- 開催日時
- 平成17年9月20日(火) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 徳
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、下山、松本、望月
討議内容
今回は「徳」と題して議論した。徳ということに関して考えていくと、なかなかその本質がつかめないことが分かってくる。これまでのテーマと違い、徳自体を自分自身で感じることがないからなのかもしれない。徳とは、道徳とか、人徳とかいった言葉によって間接的にその有り様を感じてはいるけれど、徳そのものを日常生活の中で感じることは極めて少ない。
徳という漢字の成り立ちを考えると、素直な心に従って行動することが起源らしい。ただ、子供の心も素直であるから、その子供の素直な心に従った行動に対して、あの子は徳があるといった表現はあまりぴんとこない。徳には、社会的な規範を熟知した大人が、子供のような素直な心に従って実社会の中で行動していく時に現れる何かなのであろう。
- 開催日時
- 平成17年7月29日(金) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 楽
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、山崎、桐、下山、望月
討議内容
今回は「楽」と題して議論した。「楽」には、「らく」と「楽しい」という二つの響きがあるが、「らく」は主として、つらい状態からの脱出した時の感覚であり、「楽しい」は、気持ちのいいことが持続している状態であると下山さんの調べてくれた辞書には書かれているとのこと。
重い荷物を持っていて、それを誰か他の人に持ってもらったときなどは「らく」な状態であるし、疲れた身体を休めるために床についたような時も「らく」な状態である。「らく」には、先に述べたようなつらい状態から脱出した後の静的な状態がある。そして、それは、自分の身体が疲れた状態から解放されていく自己治癒的状態である。そこでは、外部の何かとかかわったり、外部の何かに刺激されたりといった、外的環境との係わりは少ない。
- 開催日時
- 平成17年4月28日(木) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 宗教
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、山崎、下山、高須、大井、望月
討議内容
今回は「宗教」と題して議論した。討議を始める前に、参加者一人ひとりに宗教に対する印象を表現してもらった。それらを列記すると、何かを信じるもの、なんとなく胡散臭いもの、後ろめたいもの、死を連想させるもの、弱い自分の頼りどころ、バーチャルなもの、といった答えが返ってきた。
宗教の持つ意味を広辞苑で引いてみると、神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離された禁忌された神聖なものに対する信仰・行事とある。しかし、日本人の中を流れる宗教は、神聖なものに対する信仰というよりも、葬式であるとか、お盆であるとか、死者とかかわる印象が強い。だからであろう、宗教が、死と係って暗い、忌み嫌われるような印象をもつのかもしれない。ただ、これは日本人だけのことではないようだ。キリスト教にしても、教会には、十字架があったり、十字架にかけられたキリストの像があったりと、そこには死と係る暗い雰囲気が流れている。宗教が死と係っているものであることは、宗派に係らず共通しているものなのかもしれない。それは、死に対する恐怖、そして、その死の彼方にある見えざるものへの畏敬の念、とかかわっているからであろう。
- 開催日時
- 平成17年3月10日(木) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 桐、山崎、下山、吉野、望月
討議内容
今回は「生命」と題して議論した。生命とは一体なんだろうか。植物、動物、そして人間と、この世の中は生物であふれているけれども、その生物が秘めている生命とは、一体なんであろうか。科学者は、生命をいくつかの特性で定義している。それらの特性を列記すると、細胞のような入れ物を持っていること、自己複製、自己増殖できること、自己維持機能を持っていること、すなわち代謝する能力を持っていること、そして、進化する能力を持っていること。これらは、科学者が生命として定義しているものであるが、そこには、生物を客観的に捉えたところから生まれてくる機能的なものが表現されている。その機能的なものを司る最も重要なものにDNAがある。確かに、DNAは、細胞という器の中に存在し、それがあることによって、生命体は、自己複製も、代謝も、そしてそれらを遺伝として維持していく自己維持機能を持つことにもなる。
しかし、確かにそれらは生命のある側面を表現しているのかもしれないが、一般の生活者が生命を考える時、単に科学者が定義するようなものを生命とは思ってはいない。むしろ、科学者のとらえる物質的な生命観よりも、喜怒哀楽であるとか、悩み、生きることの意味を考えるといった精神的なものに生命との係わりを強く感じているのではないだろうか。どんなに肉体だけの生命が維持されたとしても、精神世界が貧しいものであったり、生き甲斐を見い出せない生き方であったりすると、それは、生命のない世界を生きているような感じがしてしまうのではないだろうか。
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第101回 「道」
- 2005-04-10 (日)
- 2005年レポート
- 開催日時
- 平成17年11月25日(金) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 祈り
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 山崎、下山、吉野、小沢、望月
討議内容
今回から、新たに小沢さんが参加してくれました。小沢さんは、若いお母さん達を中心に、子育てなどの問題を自由に語り合う会を計画されていて、語り合う会としての人文研に興味をもたれての参加ということです。また、大学で現在心理学を学んでいるとのことで、豊富な経験と知識とで、ユニークな意見を述べられることを期待しています。
今回は「祈り」と題して議論した。親が宗教とかかわっていて、子供の頃から神や仏様を祈りの対象としてきた人はともかくとして、そのような教育に直接接することのなかった人でも、いつの頃からかは分からないけれど、不安に襲われたり、病気になったりしたようなとき、その不安から開放されたい、病気が治ってほしいと、心の中で手を合わせて、見えざる何かに祈りをささげた経験の一つや二つはあるであろう。また、試験の合格を祈願したり、家族が幸せであることを祈願したりと、夢の実現や幸福を願って祈りをしたりもする。これらの祈りの対象は一体何なのであろうか。そして、祈りとは、人間が本性的に持っている何かなのであろうか。
- 開催日時
- 平成17年9月20日(火) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 徳
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、下山、松本、望月
討議内容
今回は「徳」と題して議論した。徳ということに関して考えていくと、なかなかその本質がつかめないことが分かってくる。これまでのテーマと違い、徳自体を自分自身で感じることがないからなのかもしれない。徳とは、道徳とか、人徳とかいった言葉によって間接的にその有り様を感じてはいるけれど、徳そのものを日常生活の中で感じることは極めて少ない。
徳という漢字の成り立ちを考えると、素直な心に従って行動することが起源らしい。ただ、子供の心も素直であるから、その子供の素直な心に従った行動に対して、あの子は徳があるといった表現はあまりぴんとこない。徳には、社会的な規範を熟知した大人が、子供のような素直な心に従って実社会の中で行動していく時に現れる何かなのであろう。
- 開催日時
- 平成17年7月29日(金) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 楽
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、山崎、桐、下山、望月
討議内容
今回は「楽」と題して議論した。「楽」には、「らく」と「楽しい」という二つの響きがあるが、「らく」は主として、つらい状態からの脱出した時の感覚であり、「楽しい」は、気持ちのいいことが持続している状態であると下山さんの調べてくれた辞書には書かれているとのこと。
重い荷物を持っていて、それを誰か他の人に持ってもらったときなどは「らく」な状態であるし、疲れた身体を休めるために床についたような時も「らく」な状態である。「らく」には、先に述べたようなつらい状態から脱出した後の静的な状態がある。そして、それは、自分の身体が疲れた状態から解放されていく自己治癒的状態である。そこでは、外部の何かとかかわったり、外部の何かに刺激されたりといった、外的環境との係わりは少ない。
- 開催日時
- 平成17年4月28日(木) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 宗教
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、山崎、下山、高須、大井、望月
討議内容
今回は「宗教」と題して議論した。討議を始める前に、参加者一人ひとりに宗教に対する印象を表現してもらった。それらを列記すると、何かを信じるもの、なんとなく胡散臭いもの、後ろめたいもの、死を連想させるもの、弱い自分の頼りどころ、バーチャルなもの、といった答えが返ってきた。
宗教の持つ意味を広辞苑で引いてみると、神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離された禁忌された神聖なものに対する信仰・行事とある。しかし、日本人の中を流れる宗教は、神聖なものに対する信仰というよりも、葬式であるとか、お盆であるとか、死者とかかわる印象が強い。だからであろう、宗教が、死と係って暗い、忌み嫌われるような印象をもつのかもしれない。ただ、これは日本人だけのことではないようだ。キリスト教にしても、教会には、十字架があったり、十字架にかけられたキリストの像があったりと、そこには死と係る暗い雰囲気が流れている。宗教が死と係っているものであることは、宗派に係らず共通しているものなのかもしれない。それは、死に対する恐怖、そして、その死の彼方にある見えざるものへの畏敬の念、とかかわっているからであろう。
- 開催日時
- 平成17年3月10日(木) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 桐、山崎、下山、吉野、望月
討議内容
今回は「生命」と題して議論した。生命とは一体なんだろうか。植物、動物、そして人間と、この世の中は生物であふれているけれども、その生物が秘めている生命とは、一体なんであろうか。科学者は、生命をいくつかの特性で定義している。それらの特性を列記すると、細胞のような入れ物を持っていること、自己複製、自己増殖できること、自己維持機能を持っていること、すなわち代謝する能力を持っていること、そして、進化する能力を持っていること。これらは、科学者が生命として定義しているものであるが、そこには、生物を客観的に捉えたところから生まれてくる機能的なものが表現されている。その機能的なものを司る最も重要なものにDNAがある。確かに、DNAは、細胞という器の中に存在し、それがあることによって、生命体は、自己複製も、代謝も、そしてそれらを遺伝として維持していく自己維持機能を持つことにもなる。
しかし、確かにそれらは生命のある側面を表現しているのかもしれないが、一般の生活者が生命を考える時、単に科学者が定義するようなものを生命とは思ってはいない。むしろ、科学者のとらえる物質的な生命観よりも、喜怒哀楽であるとか、悩み、生きることの意味を考えるといった精神的なものに生命との係わりを強く感じているのではないだろうか。どんなに肉体だけの生命が維持されたとしても、精神世界が貧しいものであったり、生き甲斐を見い出せない生き方であったりすると、それは、生命のない世界を生きているような感じがしてしまうのではないだろうか。
- 開催日時
- 平成17年1月28日(金) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 広野、土岐川、桐、下山、吉野、望月
討議内容
今回は「道」と題して議論した。道とは一体なんだろうか。日本古来の芸能や技能には、道とつくものが多くある。茶道、華道、柔道、剣道といった身近なものから、日本人魂を表現したものとしての武士道まである。今回の出席者の中には、道とは、ある目的に到達するためのプロセスではないかと考えている人がいる。それに対して、道とは、プロセスではなく、人間として、精神的に求めようとするある真実、到達点ではないかと考えている人もいる。
日本人が、茶道や華道といったように、芸能に対して道をつけるようになったのは、儒教や仏教の影響によるものと思われる。お茶というのは、中国の寺院で、仏様にお茶を供えることの必要から起こっているので、お茶は、仏教との係わりが強い。それが日本に伝わったのは、鎌倉時代の終わりごろであり、それが茶道となったのは、室町時代の中ごろ、能阿見と珠光という茶人によって始められたようだ。茶道というのは、茶の道といわれ、茶を介して人と人との心を結び合わせる人の道ということらしい。それは、道徳とも重なり合ってくる。すなわち、お茶を通して、人と人との心のふれあいを楽しみ、人間平等の相互愛を培うためであるらしい。
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