- 2005-12-06 (火) 21:31
- 2005年レポート
- 開催日時
- 平成17年11月25日(金) 14:00〜17:00
- 討議テーマ
- 祈り
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 山崎、下山、吉野、小沢、望月
討議内容
今回から、新たに小沢さんが参加してくれました。小沢さんは、若いお母さん達を中心に、子育てなどの問題を自由に語り合う会を計画されていて、語り合う会としての人文研に興味をもたれての参加ということです。また、大学で現在心理学を学んでいるとのことで、豊富な経験と知識とで、ユニークな意見を述べられることを期待しています。
今回は「祈り」と題して議論した。親が宗教とかかわっていて、子供の頃から神や仏様を祈りの対象としてきた人はともかくとして、そのような教育に直接接することのなかった人でも、いつの頃からかは分からないけれど、不安に襲われたり、病気になったりしたようなとき、その不安から開放されたい、病気が治ってほしいと、心の中で手を合わせて、見えざる何かに祈りをささげた経験の一つや二つはあるであろう。また、試験の合格を祈願したり、家族が幸せであることを祈願したりと、夢の実現や幸福を願って祈りをしたりもする。これらの祈りの対象は一体何なのであろうか。そして、祈りとは、人間が本性的に持っている何かなのであろうか。
狼に育てられた人間の子供は、どんなに言葉を教えても、言葉をおぼえることができなかったという。人間として生まれてきたのであるけれど、人間によって育てられなかったその子供は、結局、人間としての基本的能力を秘めていたのにもかかわらず、人間としての能力を開花することはできなかった。その狼少年は、祈りということを行うのであろうか。人間の心を育てることのできなかった狼少年には、祈りということがあるのであろうか。それは、人類がいつから祈りということを始めたのかということとも深くかかわっている。考古学的には、旧人としてのネアンデルタール人にも、死体を埋葬していた痕跡があることが認められてはいるけれども、その埋葬は、単に洞窟のようなところに死体を置いたという程度のもので、しっかりとした墓を作って埋葬するようになったのは、現代人と同じ能力を持ったクロマニョン人になってからのことである。このようなことを考えると、祈りという営みを始めたのは、現代人のような心をもった人間になってからのことであったといえよう。その証拠として、新人になってから初めて描かれるようになった洞窟壁画は、祈りの対象として描かれたものであることが次第に明らかにされてきている。
それは、言葉の誕生と深くかかわっているのかもしれない。祈りの対象が何であるのかはともかくとして、その対象を頭の中にイメージすることができるようになったのは、人間が言葉によりコミュニケーションを行うようになってからであろう。というのは、言葉には、それまで無意識に感じ取っていたものを、一つのイメージとして意識化させる力が秘められていて、そのイメージが、祈りの対象をより具体的なものとして浮かび上がらせる働きをしているからである。多分、動物でも植物でも、人間が祈りの対象とするものを感じ取っているにちがいない。ただ、動物も植物も、概念の世界でイメージする能力を持っていないから、その感じ取っているものを感じただけの直感的なものに留めてしまう。ところが、人間の場合には、その感じたものを概念の世界でイメージすることができ、そのイメージされたものに祈りをささげているのではないだろうか。すなわち、森羅万象には、人間が祈りの対象とするものが貫かれているのだが、それを人間だけが意識化でき、祈りとしての行為を生み出すことになっているのではないだろうか。
それでは、その祈りの対象となっているものとは一体なんだろうか。私達が祈る時、それは、私達の意志ではどうしようもないものの力に頼るということと深くかかわっている。先に述べたような不安からの開放、病気からの開放、そして、様々な欲求が満たされることへの祈願、といったものの根底には、人間の意志ではどうすることもできないものへのすがりにも似たものがある。人事を尽くして天命を待つという言葉や、わらをもつかむ思いといった言葉で表現されるように、祈りには、自分の力ではどうすることもできないものに対して、人間の力を超越した何かに救済をもとめる心が働いている。そして、その人間の力を超越したものは、先に述べたように、森羅万象を共通に貫いているもので、それは生命の源とも表現されるものではないだろうか。キリスト教では、それを神といい、仏教では、それを仏と呼んでいるのではないだろうか。
人間の抱く心の中には無意識の世界と意識の世界とがあるが、無意識の世界は、動物の心、植物の心とも共鳴するものであり、それが、生命と直接かかわっている。これに対して、意識の世界は、理性とかかわり、そこには言葉で代表されるような概念の世界がある。理性が肥大化してくると、理性は、五感とかかわる世界にもっぱらひきつけられ、外の世界に存在するもののみがこの世に存在するものとして、内なる世界に展開する生命の源からのメッセージに耳を傾けることをしなくなってしまう。それは、生命不在の世界であり、人間のロボット化でもある。多分そこでは、祈りということが行われなくなってくるであろう。というのは、これまで見てきたように、祈りとは、無意識と意識とのコミュニケーションであるからだ。そして、人は、その祈りを通して、生命そのものに触れ合っているのではないだろうか。神様、仏様に手を合わせるということは、自身の理性をむなしゅうして、無意識の世界の奥の奥に秘められている悠久な生命と触れ合っていることであり、そのことを通して、悠久な生命を覚知することへと人間を導いているように思える。すなわち、祈りには様々な形、様々な目的があるが、その究極の目的は、理性をむなしゅうして、悠久なる生命を生き生きと輝かせることにあるように思うのだが。
次回の討議を平成18年1月25日(水)とした。
以 上
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