- 2005-04-09 (土) 1:39
- 1997年レポート
- 開催日時
- 平成9年3月6日(木) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 高岡、広野、土岐川、奥田、山崎、水野、桐、吉田、村上、佐藤、望月
討議内容
今回は、桐さん、水野さんが50回大会に引続き参加され、新たに、村上さんが参加されました。桐さんは、学生時代から40年余り絵を描いている方です。生きることの確固とした実感を求めつつ絵を措き続けているとのことです。芸術家の視点からみた意見が聞けるものと期待しています。水野さんは、ダイヤルサービスに勤務されていましたが、現在はフリーの編集家として活曜されています。50代になり、20年以上の残りの人生を、楽しく生きるための手段を今捜し求めているとのことです。村上さんは、お寺の住職さんです。学生時代は、陸上選手として活躍、特に幅跳びでは、7メートル16という記録を持ち、高校時代、県チャンピョンになったことがあるとのことです。30代までは、教員をしていたのですが、ある心境の変化から、寺の住職となり、現在に至っているとのことです。様々な経験をお持ちな新たな三名の方々が、今までにない切口で、人間文化研究会の議論を盛り上げてくれることを期待しています。
今回は、生命と言うことで議論した。生命と言うのは、「せいめい」とも読めるし「いのち」とも読める。しかし、その二つの問には、異なった意味合いがある。「せいめい」というのは、自然科学的な意味合いが強く、無機的で西洋的な響きがある。これに対して「いのち」は、社会科学的、哲学的な意味合いがあり、有機的で東洋的な響きがある。
この「せいめい」と「いのち」との係わりは、皮膚と肌との係わりと似たところがある。皮膚は、人間の体の一番外側を取り巻いてるものとしての確固とした存在があるが、肌の方は、もう少し、内と外とを網羅した場のような意味合いがある。仏教で祈禱するときに、小さなお守りを身につけることがあるが、その小さなお守りのことを、肌守りと呼ぶのだそうだ。肌という響きには、肌合や肌が合うなど、自分の心と、他の人や物とが共感している状況をイメージさせる。
これと同じように、「せいめい」の場合には、宇宙生命とか、生命誕生とか言ったように、一人一人の心の中で感じるものではなく、物と同じように、客観的に捉える意味合いが強い。これに対して、「いのち」には、森羅万象を共通して貫いている何かを感じさせる。
「いのち」は漢字で命と表現されるが、仏教では、寿と表現されるそうだ。法華経の中に、仏の命が悠久であることを語っている寿量品という章があるが、この時使われている寿がまさに命を意味しているとのこと。そう言われてみると、長生きをした人の祝いを長寿の祝いと表現したりする。そして、この長生きすることがめでたいと言うことから、寿というのがお祝い事に使われ始めたのではないだろうか。
村上さんは、漢字のイメージとして、命は、鋭く刺々しい感じがするのに対して、寿の方は、優しく、永遠性をどこかしら感じるそうだ。命の方は、有限牲が強く、寿の方は悠久性と係わっているのかもしれない。
私達の心の中には、二つの異なった生命概念が存在しているようだ。一つは、自分の生命が、誕生をもって始まり、死によって終わるという有限な生命と、もう一つは、宇宙を形作り、森羅万象の中を貰いている悠久なる生命である。前者の生命は命という漢字からイメージされ、後者の生命は寿という漢字によってイメージされているのかもしれない。いずれにしても、私達は、有限なる命を目の前にしながら、悠久なる寿を自覚したいと暗黙の内に願っているのではないだろうか。
それでは一体どの様にしたら、寿なるいのちを自覚できるようになるのであろうか。それには、命を感じる自我を一度は否定する必要がある。その自我は、成長するにつれて、いつの間にか私達の体の中に貯ってきた様々な経験であり、プライドであり、知識であろう。
私達は、死の存在を知識としては知っていても、それを実感することはほとんどない。どんなに実感しようとしても、強烈なショックがない限り、それはほとんど不可能に近い。しかし、その不可能さを可能にさせるのが、私達の無意識からのかすかな呼掛けなのではないだろうか。物の豊かさの中で、どこかしら心の物足りなさを感じるその心こそ、無意識の世界が、自我を否定し、新たなる命、悠久なる命を求めさせようとするメッセージなのではないだろうか。
自我の否定は、死と密接に係わり合う。それは、有限な命の終わりであり、その死の後に新しい命が息を吹さ返す。死んで生きるという言葉があるが、まさに有限なる命の否定から、悠久なる寿が芽生えてくることを表現した言葉ではないだろうか。
自我の芽生えがそれほど強くなかった時代。それは、原始時代であるかも知れないが、その時代には、一人一人に名前などつけられていなかったであろう。名前のない人間には、自分というものを強く意識して感じる自我が、現在を生きる人達ほど強くなかったのではないだろうか。それ故に、源に悠久なる寿を秘めた無意識の世界と意識の世界とが互いに近い位置にあり、多くの人達は、木や石や山など、身の回りにあるものに対して、悠久なる命を直感的に感じることができ、それらを崇め奉ったのではないだろうか。この係わりは、現在社会においても見られる。高学歴の知識人よりも、体験豊富な人の方が、自分よりも優れたものに帰依する心が強いのではないだろうか。高学歴といわれる人達の中には、知識人が多く、それだけ自我が成長しているために、無意識からの呼掛けに耳を傾けることが出来ず、悠久なる命を感じることが少なくなってきているように思える。
この事は、なにも大人だけに限ったことではなく、悠久なる命に最も近いはずの子供達の心の中にも起き始めてきている。大地が舗装され、小川に蓋がされ、木々が倒されていく状況の中で、受験勉強だけに邁進する子供達は、悠久なる命に触れる環境が奪われ、生き生きとした生き方ができにくくなってきているのではないだろうか。
私達の心の世界には、論理の世界と感性の世界とがある。言葉一つとっても、「ありがとう」という言葉の響きの中には、感謝を表現した論理的な意味合いと、その言葉を発する人の心模様を表現した感性的な響きとがある。論理的なものは、科学的手段によって分析できるが、感性的なものは、科学的に分析することが出来にくい。論理的なものは、細分化し、分析することが出来るが、感性的なものは、分解した途端に元々のものがどこかに行ってしまうからである。このように、私達の知覚には、分析的に物事を捉える機能と、全体を一遍に把握する機能とがあるようだ。そして、分析的に捉えた生命が「せいめい」であり、全体的に捉えた生命が「いのち」なのではないだろうか。
臓器移植の問題も、この「せいめい」観と「いのち」観との違いから生まれてきているように思える。一つ一つの臓器を機能として捉えるならば、それは分解可能であり、移植が可能となろう。しかし、一つ一つの臓器も全体の一部として考えるならば、それは分解できないものになってくる。
木には木の生命が宿り、動物には動物の生命が宿り、一人ひとりには、一人ひとりの生命が宿っているけれども、その生命を貫いているものが共通した「いのち」なのではないだろうか。
それでは、日常私達が感じる喜怒哀禁は、いのちが感じているのであろうか。それともせいめいが感じているのであろうか。幸福や愛と生命とめ係わりはどのようになっているのであろうか。ということで、次回も「生命」について議論することにしたいと思います。
次回の開催を4月23日(水)とした。
以 上