- 2005-04-09 (土) 1:29
- 1997年レポート
- 開催日時
- 平成9年1月23日 (木) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 古館、広野、土岐川、西浜、山崎、三嶋、吉田、望月
討議内容
今回は、三嶋さん、山崎さんが前回に引続き参加され、新たに、吉田さんが参加されました。三嶋さんは、東京都出身で、IBM関連会社に勤務されています。これと言った趣味はないそうですが、皆と楽しく過ごすのが好きだとのことです。また、山崎さんは、ジュジュ化粧品会社に勤務されていまして、商品開発を主に担当されています。密教に興味を持っており、その実践と俳句に打ち込んでいるとのこと。今回新たに参加された吉田さんは、NTTの研究所に勤務されています。身の回りの人達が、パソコンに向かいながら黙々と仕事をしている姿を見ていると、通信の発達の陰で、一人一人が直接面と向かって語り合う機会が益々少なくなってきていることを実感しているとのこと。今は朗読の会に参加したり、ウォーキングをしたりするのが趣味とのこと。人生経験豊かな新しい参加者が、新しい切口で、この会を盛り上げてくれることを期待しています。
今回は、「夢」をテーマに議論した。夢という言葉で、我々が思い起こすのは、眠っていてみる夢と、希望としての夢がある。始めに希望としての夢に関して議論を進めた。希望としての夢は、例えば、いずれはベンツに乗ってみたいとかいったような物との係わりで生まれてくるものや、野茂投手のように世界の舞台で活躍できる選手になりたいといったような状況に係わるものなど形は様々であるが、今現実には自分の手には入っていないことで、将来手に入れたいと言うものである。これらの夢は、可能性との係わりで生まれてくるものであるから、年齢との係わりが大きい。若いときには、様々な可能性があるため、夢は大きく膨らむであろう。しかし、年を取るに連れて、可能性の対象が次第に少なくなり、対象となるものも変化してこよう。現実の社会を見つめてみるならば、企業の中にどっぷりと浸かってしまっている中年と呼ばれる年齢層が、夢を持つことが一番少ない世代のように思われる。
希望と言うのを山に例えて表現するならば、雲の上にぽっかりと浮かび上がった山頂のようなものではないだろうか。麓からみると、確かに崇高なる山頂をあおぎ見ることが出来るが、そこへ登る具体的な道は雲に覆われていて全く見えなくなっている。山頂という目標は見えているけれども、そこへの具体的プロセスについては、はっきりとはしていないのが夢の形態のようだ。そういう意味からすると、夢はイメージではないだろうか。イメージによって、我々は夢を描き、そのイメージを水先案内人として、着実に現実の世界を歩んでいく。雲の上に浮かび上がった山頂は、論理ではなくイメージである。そして、イメージは、我々の意識と係わるというよりも、無意識の中に潜む直感との係わりが強そうだ。
例えば、創造的な活動について考えてみても、始めにあるのはイメージであり、それが結論的なものが多い。そして、そのイメージを現実なものとしたいと言うところに夢が生まれ、その夢の実現に向かって、今できることを着実にこなしているというのが夢との係わりである。過去夢の中で大発見をしたという科学者の例がいくつか報告されている。一生懸命なにかに取り組んでいるとき、その営みは、意識の世界から少しずつ無意識の世界に落とされ、無意識の世界の中で、イメージ化されるのであろう。そのイメージ化には、一日、二日という短期的なものから、十年以上かかるものまで様々である。いずれにしても、無意識の世界の中でも考えられているということは確かなようだ。そして、意識の世界の営みが論理的、分別的であるのに対して、無意識の世界での営みは、イメージ的、無分別的といえよう。創造は、このイメージと深く係わっているようだ。 そういう意味からすると、人類の社会的進化は、イメージによって、それは夢に還元できるのであるが、導かれているといえるのではないだろうか。
現代社会の中で、中年の年齢層が一番夢から遠い存在のように思えるのは、中年の人達の心が、企業や社会の現実の問題に捕らわれ、無意識の世界に潜む感性や直感力を解放することができにくくなっているからではないだろうか。中国思想の中に、翁童論と言うのがある。これは、老人と子供とが仲良きことに、人間の営みの正しい流れがあるということのようだ。もし我々の生命を育む宇宙生命なるものがあり、それを悠久なる世界であり、また、死の世界であると考えるならば、誕生して間もない子供も、死に近い老人も共にこの宇宙生命に近いところに心があるのではないだろうか。共に悠久なる宇宙生命の中で生きていることを無意識の内に感じ合い、そこに快さを見いだしているのかもしれない。そして、この悠久なる宇宙生命に近いところに意識があるときに夢は生まれてくるのではないだろうか。中年の世代をはさんで、若者と高齢者とに形は違うけれども二つの夢が展開しているように思える。若者達が抱く夢は、世俗的社会の中での価値観に基づく夢であろう。先の例で、高級車をほしがったり、名声を馳せたりという欲求は、世俗的価値観との係わりが強い。これに対して、高齢者の抱く夢は、文化活動などと係わりながら、自身の心の世界に、自己を確立したいと言うような、内面的世界での係わりが強い。これを違った言葉で表現するならば、若者の抱く夢は、流行と係わりの強い夢であり、高齢者の抱く夢は、不易なことと係わりの強い夢であるといえよう。もっとも、この二つの夢が、年齢によってはっきりと分離するということよりも、希望としての夢が、大きく二つに分かれるであろうということの方が、より真実に近いようだ。
以上のように、希望としての夢は、前向きな色合いが濃いが、眠っているとき見る夢の方は、これとはかなり違った様相を呈している。だれしも子供時代に、恐い夢を見た経験はあるであろう。人の死に係わるものや、現実では考えられないような恐い夢で、夜中に目が醒め、母親の床の中にもぐり込んだ経験は私だけではないだろう。そんなとき、よく母親は、夢を食べる動物と言われるばくに悪い夢を食べてもらって心を落ちつかせるように、
「みし夢は、ばくの餌食にするからに、心は清き曙の空」
という俳句もどきを聞かせてくれたものだ。これを何度か言うことによって、夢によってかき乱された心が落ち着くような経験を何度かしたことがある。眠っているとき見る夢は、心乱す夢が多い。希望としての夢も、眠っているとき見る夢も共に無意識の世界と深く係わっていることは確かなようだが、どうも、人間の無意識の世界の中には、二つのものが混在しているようだ。それは悪魔と神とは言えないだろうか。そして、希望としての夢は、主として、神なる無意識の世界に根を張る夢であり、眠っているとき見る夢は、主として悪魔と係わる無意識の世界に根を張る夢のように思える。ただ、ここで悪魔と神は紙一重であるような気もしてくる。その紙を作っているのは、実は一人一人の日常生活での心のあり方なのではないだろうか。無意識の世界からの呼掛けに耳を傾け、その呼掛けに素直にしたがって生きている人には、眠っているとき見る夢も楽しく、美しいものが展開するのではないだろうか。これに対して、無意識の世界からの呼掛けにも係わらず、それとは反対の行動を知らず知らずのうちにとってしまっている人には、夜の夢は、日常の心を否定するような恐ろしい夢、あるいは気持ちの悪い夢になるのかもしれない。フロイトの唱えた夢判断は、この無意議からの呼掛けに他ならないであろう。自分自身では正しいと思って行動していることでも、自身の無意識の世界に鎮座する自己から見れば、全く逆な営みであることを、夢は警告しているように思える。
眠っているとき見る夢と、希望としての夢とでは、我々がイメージする仕方には、違いがあるようだ。眠っているとき見る夢は、身近な人が様々な形で登場してきたりして、きわめて映像的である。これに対して、野茂投手のようになりたいとか、平和な世界を作りたいとか言った希望としての夢の多くは概念的である。どうしてこのように同じ夢でも異なっているのであろうか。一つ考えられることは、希望としての夢は、将来との係わりであり、時間軸上で考えられるものである。これに対して、眠っているとき見る夢は、過去に係わった人が夢の中に登場してきたりして、そこには時間を超越した世界が展開しており、空間軸上で生まれてくるもののように思える。そして、このことは、私達の無意識の世界の中に展開するイメージが、元々時空を超越しているものであり、時間と空間というイメージによって、その時空を超越しているイメージが我々の意識の世界に働きかけているということを意味していないだろうか。
いずれにしても、希望としての夢と、眠っているときにみる夢とは、一見異なった様相を呈してはいるが、共に心の無意識の世界からのメッセージであることには変わりがないようだ。
次回の開催日を3月6日(木)とした。
以 上
- 新しい記事: 第52回 「生命」
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