- 2005-04-09 (土) 0:44
- 1996年レポート
- 開催日時
- 平成8年11月14日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 早稲田大学国際会議場
- 参加者
- 古館、多田、広野、徳永、塚田、土岐川、鈴木、奥田、竹内、久能、武井、長谷川、西浜、小田島、小田、橋本、城芽、桐、山崎、三嶋、水野、望月(亘)、早稲田大学商学部学生23名、佐藤、望月
議事内容
今回は、人間文化研究会50回を記念して、早稲田大学国際会議場にて、生きるということ−個人と組織−と題して討議した。
生きるということは、創造と機能とが融合した生命活動なのであろうか。創造を育むものは、個人の才能であり、機能を育むものは組織の力であるように思える。何人集まってもピカソが表現した絵を生み出すことはできないであろうし、一人の力では、現在私達が日常生活の中で享受している様々な利便性を提供することはできなかったであろう。人間の社会は、一人の力でなければ生み出すことの出来ないものと、組織の力でなければ生み出すことの出来ないものが融合されて成り立っている。
文化は、一人の人の創造性が生み出したものを、組織の力で日常生活の中に浸透させてきているものではないだろうか。絵画にしても、日本文化と言われる茶道や華道、さらには俳句にしても、始めは、一人の人の創造性から生まれてきたものである。それらがより集まって、日常生活の中に浸透したとき、それは文化となって華開く。
物は計量できるが、文化は計量できない。計量できるものには、はっきりとした目的を設定できるが、計量できないものには明確な目的を指し示すことはできない。23才の時から40年近く絵を描き続けていらっしゃる桐さんは、今でもある目的をもって絵をかくことはないという。ただ、絵を描き続けなければ気持ちが悪いし、それを描くことによって、絵とコミュニケーションをとりながら、何かこころ満たされるものを追い求めているという。絵を描くこと、それは創造活動そのものであるが、創造活動には、ある意味で、目的の彼方に広がる開放された終わりのない世界が広がっているのであろう。
今回の人間文化研究会のポスターや人間文化研究会50回の歩みパンフレットをデザインして下さった土岐川さんも、それらをデザインしているうちに、無限に広がる創造の世界の中で、快い時を過ごしていたようだ。新たに浮かんだアイデアを描くと、その描かれたものとのコミュニケーションの中から、さらにまた全く新しいアイデアが生まれてきたという。そこには、創造が育む生命の進化、あるいは、生命の営みを垣間見る思いがする。たぶん、この宇宙の生命の営みは、始めから人間を生み出そうなどという目的もなかったに違いない。人間の誕生は、無限に広がる創造活動の一つの選択であったに過ぎないのかも知れない。故に、その宇宙生命の創造活動が生み出した人間の活動においても、そこには、無限に開かれた創造の世界が広がっているのであると考えられる。そして、それは、物質的な世界での様々な活動と同じように、人間の精神世界での創造活動も、宇宙生命の営みそのもののように思える。生きるということは、宇宙生命の活動そのものであり、それは創造活動と何等かな係わりを絶えず持ち続けているものではないだろうか。それは、竹内さんが切符の比喩で表現されたように、表には乗車駅と料金とだけしか書かれていないが、裏の磁気メモリーには見えざる情報をいっぱい書くことが出来る。この切符の裏の見えざる情報を如何に創造していくかが、それぞれの人の生きる営みであるということと相通ずるところがあろう。
山形県からはるばるこの会に参加された小田島さんから、創造活動と関連して、百姓と農民との違いが指摘された。農業を通して、生きることの意味を実感しているのが百姓で、米なんぼ作って、いくら儲ると試算しているのが農民だという。百姓には、農業を通しての哲学がある。これに対して、農民には、経済活動としての農業しかない。先に述べた文化活動も、この百姓の営みとどこかしら共鳴するものを感じさせる。近代化と称して、百姓の営みが次第に切り落とされ、単に経済活動の手段としての農業が育って行く社会の動きに、何とも言えない寂しさと、生命活動の消沈さを感じざるを得ない。
このように考えてくると、いままで私達の日常生活の中にあった創造活動が、生産性を向上させたことによって、仕事をつまらないものにさせてきているように思える。個人の活動が生産活動であった営みから、組織の活動が生産活動になって行くにしたがって、個人と係わる創造性が次第に切り落とされ、画一化された機能だけで囲まれた社会が出来上がってくる危険性を感じてしまう。そこには、宇宙生命と共鳴するような創造物のない社会環境が生まれ、そこに生活する人間も、生命と係わりの薄いものになって行ってしまうことを危惧する。しかし、そのような危険性の中で、決して消滅することのない宇宙生命は、新たな世界を人間に提供しているのかも知れない。それは、利便牲と係わるいわゆるインフラと呼ばれるものが確立され、生きるために働くことから、働くために生きるという、新たな創造活動を支えることの出来る社会環境が出来上がってきているとも考えられるのである。今の若い人達は、今の高齢者が過ごしてきた時代よりも、より自由に、自身のしたいことの出来る環境の中に生きていることは確かであろう。その自由さは、与えられたものをこなしていくという組織重視の社会環境から、一人一人の創造性の中から生まれてくるものに価値を見いだす社会環境へ、社会を大きく変えようとする力であるように思える。
一人一人が好きなことに夢中になって、そこから生まれてきたものに価値が認められる時代。そんな時代であるからこそ、一人一人が、一体何をしたいのかということを具体的に持っていなくては、逆に生活しにくい時代なのかも知れない。これまでの時代は、組織の力によってものが生まれ、社会が動いていた。その社会にあっては、組織の論理が、一人一人に好きなことを考えさせる余裕を与えなかった。多くの年輩者は、定年になってはじめて自分の本当にやりたいことを考えなければならないという壁にぶち当たることになる。遊びと仕事のボーダーが今までほどはっきりと分けられなくなってくる時代のように思える。そして、絵を描き続けてきた桐さんが、いみじくも自身の絵を描くことへの気持ちを表現されていたように、好きなことではあるけれども、決して満足できていない自分がそこにあるという。絵に対して満足できないというよりも、絵を通して、生きていることの確固とした実感を得ることの出来ないもどかしさへの不満と言うものであろうか。それは、悟りとでも言うのであろうか、何かそのようなものを求めての創造活動であるように思える。創造活動のその行き着く先は、生きることの実感なのかも知れない。
生きることを考えるということをよく考えてみると、そこには死との係わりが重くのし上がってくるのではないだろうか。早稲田大学2年生の学生さんが、友人の死に接し、ふと目についた人間文化研究会の「生きるということ」というタイトルに引かれてこの会に参加したという動機を語っておられた。また、自分の死を身近に感じる年齢になったと言う橋本さんは、死ぬときに後悔のない人生を過ごしたといえる確固とした生き方をしたいと思い始め、この会に参加したという。このように、生きるということと死とは、表裏一体の関係にあるように思える。生きるということに意味を持たずに生きて行くことも勿論あるだろう。しかし、山崎さんが、犬の生きている姿を見ながら感じ入っているように、生きているということは、生きるということとは全く別な何かであろう。
モンテーニュがその著「エセー」の中で、「生きるということは、死ぬための舞台を作ることである」と述べているように、人間として生まれた限り、生きることの意味は、逆に死に対する恐怖から如何にして逃れるかの手段を見つけることでもある。それは、我々の体、そして精神を育んでいる宇宙生命そのものと一体となることの自覚かも知れない。そして、その宇宙生命と一体となったという自覚こそ、そこには、悠久に生き続ける宇宙生命の鼓動を自身の体の中に体得することのように思える。
以上のように、生きることについて、様々な角度から議論してきました。生きることは単に死との係わりだけではなく、多田さんがアランの幸福論と釣りとの係わりで述べておられたように、幸福に生きるということも生きることを問う上ではきわめて大切な問題であると思います。これらの点については、今後また機会を見つけて議論していきたいと思います。
50回記念大会を開催するに当たり、立派な掲示ポスターや50回史をデザインして下さった土岐川さん、国際会議場利用に当たってお骨折りいただいた武井さん、話題提供としての基調講演をして下さった古館さん、佐藤さん、多田さん、鈴木さん、はるばる大阪から駆けつけ会場準備等に協力していただいた西浜さん、長谷川さん、休みをとって会場準備に協力していただいた竹内さん、この回の開催に当たってこと細かく準備を整えて下さった広野さん、そして、忙いしい時間の中で、参加して下さった方々にこの場を借りましてお礼の言葉を申し上げたいと思います。本当に有難うございました。
お陰様で、今回は、沢山の方に参加していただき、50人のディスカッションにふさわしく、活発な議論が出来たことをうれしく思います。議論に参加された皆様に心からお礼を申し上げると共に、新しい時代、人間文化研究会も新たな気持ちで、スタートしたいと思います。これからも時間の許す限り多くの方々の参加をお待しております。
次回の討議を1997年1月23日(木)とした。
以 上