1996年レポート
第50回 「生きるということ」
- 2005-04-09 (土)
- 1996年レポート
- 開催日時
- 平成8年11月14日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 早稲田大学国際会議場
- 参加者
- 古館、多田、広野、徳永、塚田、土岐川、鈴木、奥田、竹内、久能、武井、長谷川、西浜、小田島、小田、橋本、城芽、桐、山崎、三嶋、水野、望月(亘)、早稲田大学商学部学生23名、佐藤、望月
議事内容
今回は、人間文化研究会50回を記念して、早稲田大学国際会議場にて、生きるということ−個人と組織−と題して討議した。
生きるということは、創造と機能とが融合した生命活動なのであろうか。創造を育むものは、個人の才能であり、機能を育むものは組織の力であるように思える。何人集まってもピカソが表現した絵を生み出すことはできないであろうし、一人の力では、現在私達が日常生活の中で享受している様々な利便性を提供することはできなかったであろう。人間の社会は、一人の力でなければ生み出すことの出来ないものと、組織の力でなければ生み出すことの出来ないものが融合されて成り立っている。
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第49回 「老い」
- 2005-04-08 (金)
- 1996年レポート
- 開催日時
- 平成8年11月14日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 早稲田大学国際会議場
- 参加者
- 古館、多田、広野、徳永、塚田、土岐川、鈴木、奥田、竹内、久能、武井、長谷川、西浜、小田島、小田、橋本、城芽、桐、山崎、三嶋、水野、望月(亘)、早稲田大学商学部学生23名、佐藤、望月
議事内容
今回は、人間文化研究会50回を記念して、早稲田大学国際会議場にて、生きるということ−個人と組織−と題して討議した。
生きるということは、創造と機能とが融合した生命活動なのであろうか。創造を育むものは、個人の才能であり、機能を育むものは組織の力であるように思える。何人集まってもピカソが表現した絵を生み出すことはできないであろうし、一人の力では、現在私達が日常生活の中で享受している様々な利便性を提供することはできなかったであろう。人間の社会は、一人の力でなければ生み出すことの出来ないものと、組織の力でなければ生み出すことの出来ないものが融合されて成り立っている。
- 開催日時
- 平成8年9月25日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、鈴木(智)、奥田、久能、田中、佐藤、望月
議事内容
今回は、老いをテーマに議論した。老いという言葉の意味や響さには、年とって、肉体的に退化し、動きや行動が鈍って来るというイメージが第一にあろうが、年はとっていなくても、生き生きと生きていないような状態も精神面での老いといえる。老いという響きの中には、新たな生命力が生まれて来るその活力がなくなってきている状態を表現しているように感じる。例えば、同じ生き生きと生きていないような状態であっても、その状態がある人にとっては、新たな生命を生み出すための前段階であるような時には、その状態は老いとは感じられないであろう。しかし、今まで過ごしてきた過去の遺産の上にあぐらをかいて、新たな生命力を発揮しないで惰性で生きているような人は、たとえ実年齢は老いと言える年齢ではなくても、精神的に老いの状態を迎えているといえるのではないだろうか。
この老いを老いとしてよしとしていた時代は、老いた人の中に、若年者では太刀打ちできない経験が秘められていて、その経験が、社会や企業を動かす上での原動力になっていた。経験に則った指導や経営が、組織を動かす上で重要な役割を果たしていたのである。しかし、コンピュータやロボットが導入され、様々な情報が、様々なメディアを介して移動し始め、それらの情報が、社会や企業を動かして行く原動力になってきている近年の社会変化は、もはや年輩者の経験が通用する時代ではなくなってきてしまった。一昔前なら、先輩の豊かな経験に基づく指導や行動に尊敬の目を向けていた若者達が、先輩達の全く経験しなかった分野で、先頭をきって走り始めているのである。
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第48回 「文化」
- 2005-04-08 (金)
- 1996年レポート
- 開催日時
- 平成8年11月14日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 早稲田大学国際会議場
- 参加者
- 古館、多田、広野、徳永、塚田、土岐川、鈴木、奥田、竹内、久能、武井、長谷川、西浜、小田島、小田、橋本、城芽、桐、山崎、三嶋、水野、望月(亘)、早稲田大学商学部学生23名、佐藤、望月
議事内容
今回は、人間文化研究会50回を記念して、早稲田大学国際会議場にて、生きるということ−個人と組織−と題して討議した。
生きるということは、創造と機能とが融合した生命活動なのであろうか。創造を育むものは、個人の才能であり、機能を育むものは組織の力であるように思える。何人集まってもピカソが表現した絵を生み出すことはできないであろうし、一人の力では、現在私達が日常生活の中で享受している様々な利便性を提供することはできなかったであろう。人間の社会は、一人の力でなければ生み出すことの出来ないものと、組織の力でなければ生み出すことの出来ないものが融合されて成り立っている。
- 開催日時
- 平成8年9月25日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、鈴木(智)、奥田、久能、田中、佐藤、望月
議事内容
今回は、老いをテーマに議論した。老いという言葉の意味や響さには、年とって、肉体的に退化し、動きや行動が鈍って来るというイメージが第一にあろうが、年はとっていなくても、生き生きと生きていないような状態も精神面での老いといえる。老いという響きの中には、新たな生命力が生まれて来るその活力がなくなってきている状態を表現しているように感じる。例えば、同じ生き生きと生きていないような状態であっても、その状態がある人にとっては、新たな生命を生み出すための前段階であるような時には、その状態は老いとは感じられないであろう。しかし、今まで過ごしてきた過去の遺産の上にあぐらをかいて、新たな生命力を発揮しないで惰性で生きているような人は、たとえ実年齢は老いと言える年齢ではなくても、精神的に老いの状態を迎えているといえるのではないだろうか。
この老いを老いとしてよしとしていた時代は、老いた人の中に、若年者では太刀打ちできない経験が秘められていて、その経験が、社会や企業を動かす上での原動力になっていた。経験に則った指導や経営が、組織を動かす上で重要な役割を果たしていたのである。しかし、コンピュータやロボットが導入され、様々な情報が、様々なメディアを介して移動し始め、それらの情報が、社会や企業を動かして行く原動力になってきている近年の社会変化は、もはや年輩者の経験が通用する時代ではなくなってきてしまった。一昔前なら、先輩の豊かな経験に基づく指導や行動に尊敬の目を向けていた若者達が、先輩達の全く経験しなかった分野で、先頭をきって走り始めているのである。
- 開催日時
- 平成8年7月18日(木) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 古館、多田、広野、塚田、尾崎、西浜、望月
議事内容
今回は、古館さんから、ヨーロッパ文化視察旅行で調査し、また感じたヨーロッパ文化について基調講演をいただき、その後、改めて文化について議論した。
ヨーロッパ諸国は、全体的に文化に対する関心が高く、文化に係わる事業費が日本の数倍から10倍ほどになっている。また、文化との係わりにおいて、これまでの文化財保護といった係わりから、新しい文化を創造する働きが強まっている。新しい文化の創造の一つとして、若い芸術家を育てようとする動きがあり、様々な文化活動に対して賞を企画したり、格安な料金で観劇できる場を多く与えているという。ウィーンのオペラハウスでは、観劇するには最も良い場所であるローヤルボックス席の下を、格安な立見席にして、お金のない若者達にも、観劇できる機会を与えているとのこと。
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第47回 「文化」
- 2005-04-08 (金)
- 1996年レポート
- 開催日時
- 平成8年11月14日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 早稲田大学国際会議場
- 参加者
- 古館、多田、広野、徳永、塚田、土岐川、鈴木、奥田、竹内、久能、武井、長谷川、西浜、小田島、小田、橋本、城芽、桐、山崎、三嶋、水野、望月(亘)、早稲田大学商学部学生23名、佐藤、望月
議事内容
今回は、人間文化研究会50回を記念して、早稲田大学国際会議場にて、生きるということ−個人と組織−と題して討議した。
生きるということは、創造と機能とが融合した生命活動なのであろうか。創造を育むものは、個人の才能であり、機能を育むものは組織の力であるように思える。何人集まってもピカソが表現した絵を生み出すことはできないであろうし、一人の力では、現在私達が日常生活の中で享受している様々な利便性を提供することはできなかったであろう。人間の社会は、一人の力でなければ生み出すことの出来ないものと、組織の力でなければ生み出すことの出来ないものが融合されて成り立っている。
- 開催日時
- 平成8年9月25日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、鈴木(智)、奥田、久能、田中、佐藤、望月
議事内容
今回は、老いをテーマに議論した。老いという言葉の意味や響さには、年とって、肉体的に退化し、動きや行動が鈍って来るというイメージが第一にあろうが、年はとっていなくても、生き生きと生きていないような状態も精神面での老いといえる。老いという響きの中には、新たな生命力が生まれて来るその活力がなくなってきている状態を表現しているように感じる。例えば、同じ生き生きと生きていないような状態であっても、その状態がある人にとっては、新たな生命を生み出すための前段階であるような時には、その状態は老いとは感じられないであろう。しかし、今まで過ごしてきた過去の遺産の上にあぐらをかいて、新たな生命力を発揮しないで惰性で生きているような人は、たとえ実年齢は老いと言える年齢ではなくても、精神的に老いの状態を迎えているといえるのではないだろうか。
この老いを老いとしてよしとしていた時代は、老いた人の中に、若年者では太刀打ちできない経験が秘められていて、その経験が、社会や企業を動かす上での原動力になっていた。経験に則った指導や経営が、組織を動かす上で重要な役割を果たしていたのである。しかし、コンピュータやロボットが導入され、様々な情報が、様々なメディアを介して移動し始め、それらの情報が、社会や企業を動かして行く原動力になってきている近年の社会変化は、もはや年輩者の経験が通用する時代ではなくなってきてしまった。一昔前なら、先輩の豊かな経験に基づく指導や行動に尊敬の目を向けていた若者達が、先輩達の全く経験しなかった分野で、先頭をきって走り始めているのである。
- 開催日時
- 平成8年7月18日(木) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 古館、多田、広野、塚田、尾崎、西浜、望月
議事内容
今回は、古館さんから、ヨーロッパ文化視察旅行で調査し、また感じたヨーロッパ文化について基調講演をいただき、その後、改めて文化について議論した。
ヨーロッパ諸国は、全体的に文化に対する関心が高く、文化に係わる事業費が日本の数倍から10倍ほどになっている。また、文化との係わりにおいて、これまでの文化財保護といった係わりから、新しい文化を創造する働きが強まっている。新しい文化の創造の一つとして、若い芸術家を育てようとする動きがあり、様々な文化活動に対して賞を企画したり、格安な料金で観劇できる場を多く与えているという。ウィーンのオペラハウスでは、観劇するには最も良い場所であるローヤルボックス席の下を、格安な立見席にして、お金のない若者達にも、観劇できる機会を与えているとのこと。
- 開催日時
- 平成8年6月4日(火) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、塚田、西浜、望月
議事内容
今回も前回に引続き文化について議論した。文化を培ってきたその基本には、男性の役割が大きく寄与していたように思われる。例えば、日本文化に目を向けるならば、貴族社会が支配的であった平安時代を除いて、茶道、節句、浮世絵、歌舞伎、相撲等々男性が基本になっている文化が多い。また、文化だけではなく、哲学や思想、さらには宗教もほとんどが、男性によって生み出されてきている。このことは、これまでの社会が、男性を主体とした社会であったという社会環境重視の考えもあるであろうが、その基本には、本質的な性差がありそうだ。
女性の代表として、今回参加された広野さんの考え方によると、もちろん女性も人生や、社会的な様々な事柄に悩むこともあるが、その悩みの度合が、男性ほどは執着しないらしい。女性の目からみると、なぜあんなにも男性は悩むのかといったようなことがしばしば見受けられるらしい。どうやら、男性の方が、社会の中で、また生きていく上で、女性とは違った度合で悩んでいるようだ。このことを、凧に例えて表現するならば、女性は、地にしっかりと凧糸が止められた状態の中で、風を切って舞い上がっている凧に対して、男性の場合には、糸の切れた凧のように、不安定な状態で空中をさまよっているもののようだ。その不安定さが故に、生きていることを暗黙のうちに考え、悩んでしまうのかも知れない。そして、その不安定さの度合の大きさと、意志力との強さが、聖人として傑出した人間を生み出してきたのではないだろうか。このような人生に対する煩悶との戦いの中から、儀式、作法、芸術作品と言うものが生まれてきた。そして、それらのものは、風土の中で育まれた民族特有の美意識と結び付いて、文化と言われるものに高められてきたものと考えられる。そして、これらの文化的要素を文化たらしめて行くためには、文化を形作る人と、文化を推進する人が必要なようだ。人類の歴史を見てみるならば、芸術家と、その芸術作品を美として感じる目を持つ社会的リーダーが必要であったことは間違いないであろう。
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第46回 「文化」
- 2005-04-08 (金)
- 1996年レポート
- 開催日時
- 平成8年11月14日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 早稲田大学国際会議場
- 参加者
- 古館、多田、広野、徳永、塚田、土岐川、鈴木、奥田、竹内、久能、武井、長谷川、西浜、小田島、小田、橋本、城芽、桐、山崎、三嶋、水野、望月(亘)、早稲田大学商学部学生23名、佐藤、望月
議事内容
今回は、人間文化研究会50回を記念して、早稲田大学国際会議場にて、生きるということ−個人と組織−と題して討議した。
生きるということは、創造と機能とが融合した生命活動なのであろうか。創造を育むものは、個人の才能であり、機能を育むものは組織の力であるように思える。何人集まってもピカソが表現した絵を生み出すことはできないであろうし、一人の力では、現在私達が日常生活の中で享受している様々な利便性を提供することはできなかったであろう。人間の社会は、一人の力でなければ生み出すことの出来ないものと、組織の力でなければ生み出すことの出来ないものが融合されて成り立っている。
- 開催日時
- 平成8年9月25日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、鈴木(智)、奥田、久能、田中、佐藤、望月
議事内容
今回は、老いをテーマに議論した。老いという言葉の意味や響さには、年とって、肉体的に退化し、動きや行動が鈍って来るというイメージが第一にあろうが、年はとっていなくても、生き生きと生きていないような状態も精神面での老いといえる。老いという響きの中には、新たな生命力が生まれて来るその活力がなくなってきている状態を表現しているように感じる。例えば、同じ生き生きと生きていないような状態であっても、その状態がある人にとっては、新たな生命を生み出すための前段階であるような時には、その状態は老いとは感じられないであろう。しかし、今まで過ごしてきた過去の遺産の上にあぐらをかいて、新たな生命力を発揮しないで惰性で生きているような人は、たとえ実年齢は老いと言える年齢ではなくても、精神的に老いの状態を迎えているといえるのではないだろうか。
この老いを老いとしてよしとしていた時代は、老いた人の中に、若年者では太刀打ちできない経験が秘められていて、その経験が、社会や企業を動かす上での原動力になっていた。経験に則った指導や経営が、組織を動かす上で重要な役割を果たしていたのである。しかし、コンピュータやロボットが導入され、様々な情報が、様々なメディアを介して移動し始め、それらの情報が、社会や企業を動かして行く原動力になってきている近年の社会変化は、もはや年輩者の経験が通用する時代ではなくなってきてしまった。一昔前なら、先輩の豊かな経験に基づく指導や行動に尊敬の目を向けていた若者達が、先輩達の全く経験しなかった分野で、先頭をきって走り始めているのである。
- 開催日時
- 平成8年7月18日(木) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 古館、多田、広野、塚田、尾崎、西浜、望月
議事内容
今回は、古館さんから、ヨーロッパ文化視察旅行で調査し、また感じたヨーロッパ文化について基調講演をいただき、その後、改めて文化について議論した。
ヨーロッパ諸国は、全体的に文化に対する関心が高く、文化に係わる事業費が日本の数倍から10倍ほどになっている。また、文化との係わりにおいて、これまでの文化財保護といった係わりから、新しい文化を創造する働きが強まっている。新しい文化の創造の一つとして、若い芸術家を育てようとする動きがあり、様々な文化活動に対して賞を企画したり、格安な料金で観劇できる場を多く与えているという。ウィーンのオペラハウスでは、観劇するには最も良い場所であるローヤルボックス席の下を、格安な立見席にして、お金のない若者達にも、観劇できる機会を与えているとのこと。
- 開催日時
- 平成8年6月4日(火) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、塚田、西浜、望月
議事内容
今回も前回に引続き文化について議論した。文化を培ってきたその基本には、男性の役割が大きく寄与していたように思われる。例えば、日本文化に目を向けるならば、貴族社会が支配的であった平安時代を除いて、茶道、節句、浮世絵、歌舞伎、相撲等々男性が基本になっている文化が多い。また、文化だけではなく、哲学や思想、さらには宗教もほとんどが、男性によって生み出されてきている。このことは、これまでの社会が、男性を主体とした社会であったという社会環境重視の考えもあるであろうが、その基本には、本質的な性差がありそうだ。
女性の代表として、今回参加された広野さんの考え方によると、もちろん女性も人生や、社会的な様々な事柄に悩むこともあるが、その悩みの度合が、男性ほどは執着しないらしい。女性の目からみると、なぜあんなにも男性は悩むのかといったようなことがしばしば見受けられるらしい。どうやら、男性の方が、社会の中で、また生きていく上で、女性とは違った度合で悩んでいるようだ。このことを、凧に例えて表現するならば、女性は、地にしっかりと凧糸が止められた状態の中で、風を切って舞い上がっている凧に対して、男性の場合には、糸の切れた凧のように、不安定な状態で空中をさまよっているもののようだ。その不安定さが故に、生きていることを暗黙のうちに考え、悩んでしまうのかも知れない。そして、その不安定さの度合の大きさと、意志力との強さが、聖人として傑出した人間を生み出してきたのではないだろうか。このような人生に対する煩悶との戦いの中から、儀式、作法、芸術作品と言うものが生まれてきた。そして、それらのものは、風土の中で育まれた民族特有の美意識と結び付いて、文化と言われるものに高められてきたものと考えられる。そして、これらの文化的要素を文化たらしめて行くためには、文化を形作る人と、文化を推進する人が必要なようだ。人類の歴史を見てみるならば、芸術家と、その芸術作品を美として感じる目を持つ社会的リーダーが必要であったことは間違いないであろう。
- 開催日時
- 平成8年4月23日(火) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 古館、広野、塚田、鈴木(智)、久能、西浜、木村、佐藤、望月
議事内容
今回新たなメンバーとして、西浜様、木村様のお二人の方が参加して下さいました。酉浜様は、ダイキン工業(株)に勤務されており、新規事業開発の仕事を担当されています。機械工学が御専門で、近年とみに人文系の事柄に関心が湧いてきて、この会に参加してみようと思ったそうです。団塊の世代の代表として、大いに発言されることを期待しています。木村様は、古館さんの学生時代の無二の友人のお嬢様で、現在、お茶の水女子大学国文科の4年生です。広島県出身で、小学校時代からバレーボールをやっており、大学ではテニスの同好会に所属しているそうです。卒業論文は、源氏物語を題材に考えているとのこと。若者を代表する新鮮な意見で、大人達の眼を開かせてくれるものと期待しています。
今回は、文化について議論した。これまで、人間文化研究会においては、企業文化ということで議論したことはありますが、文化そのものを、様々な角度から議論するのは今回が始めてであり、文化の持つ様々な側面を拾い出す形で議論は進められた。
先ず始めに、文化と文明の違いについて、各人の持つイメージを語り合った。文化と文明をドイツ語で定義されたものを引用すると、文化とは、形而上の事柄と関係し、文明は形而下の事柄と関係するとのこと。我々のイメージからしても、文化と文明とを大ざっぱに区別しようとすると、文化は精神的な事柄と主に関係し、文明は、物質的な事柄と強く関係しているというイメージが浮かんでくる。それらをさらに一歩踏み入って考えてみると、文明は、移動すること、物を作ること、飲食をすること、語り合うことなど、人間が基本的に持っている機能を、物によって代行させることによって生まれて来る社会環境であるといえよう。水を飲んだり、物を食べたりする手の代わりに、食器を生み出したことは一つの文明と係わって来るであろうし、足で移動していた代わりに、馬車や車を生み出したことも一つの文明であろう。会って語り合うという基本的な機能から、電話やインターネットによるコミュニケーションへの変化は、新しい文明の発生と言えるであろう。従って、文明は、物と大きく係わっているために、早い違いの違いはあるものの、より便利なもの、より欲求を満たしてくれるものであればあるほど、民族の垣根を越えて、容易に伝搬していく。
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第45回 「感動」
- 2005-04-08 (金)
- 1996年レポート
- 開催日時
- 平成8年11月14日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 早稲田大学国際会議場
- 参加者
- 古館、多田、広野、徳永、塚田、土岐川、鈴木、奥田、竹内、久能、武井、長谷川、西浜、小田島、小田、橋本、城芽、桐、山崎、三嶋、水野、望月(亘)、早稲田大学商学部学生23名、佐藤、望月
議事内容
今回は、人間文化研究会50回を記念して、早稲田大学国際会議場にて、生きるということ−個人と組織−と題して討議した。
生きるということは、創造と機能とが融合した生命活動なのであろうか。創造を育むものは、個人の才能であり、機能を育むものは組織の力であるように思える。何人集まってもピカソが表現した絵を生み出すことはできないであろうし、一人の力では、現在私達が日常生活の中で享受している様々な利便性を提供することはできなかったであろう。人間の社会は、一人の力でなければ生み出すことの出来ないものと、組織の力でなければ生み出すことの出来ないものが融合されて成り立っている。
- 開催日時
- 平成8年9月25日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、鈴木(智)、奥田、久能、田中、佐藤、望月
議事内容
今回は、老いをテーマに議論した。老いという言葉の意味や響さには、年とって、肉体的に退化し、動きや行動が鈍って来るというイメージが第一にあろうが、年はとっていなくても、生き生きと生きていないような状態も精神面での老いといえる。老いという響きの中には、新たな生命力が生まれて来るその活力がなくなってきている状態を表現しているように感じる。例えば、同じ生き生きと生きていないような状態であっても、その状態がある人にとっては、新たな生命を生み出すための前段階であるような時には、その状態は老いとは感じられないであろう。しかし、今まで過ごしてきた過去の遺産の上にあぐらをかいて、新たな生命力を発揮しないで惰性で生きているような人は、たとえ実年齢は老いと言える年齢ではなくても、精神的に老いの状態を迎えているといえるのではないだろうか。
この老いを老いとしてよしとしていた時代は、老いた人の中に、若年者では太刀打ちできない経験が秘められていて、その経験が、社会や企業を動かす上での原動力になっていた。経験に則った指導や経営が、組織を動かす上で重要な役割を果たしていたのである。しかし、コンピュータやロボットが導入され、様々な情報が、様々なメディアを介して移動し始め、それらの情報が、社会や企業を動かして行く原動力になってきている近年の社会変化は、もはや年輩者の経験が通用する時代ではなくなってきてしまった。一昔前なら、先輩の豊かな経験に基づく指導や行動に尊敬の目を向けていた若者達が、先輩達の全く経験しなかった分野で、先頭をきって走り始めているのである。
- 開催日時
- 平成8年7月18日(木) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 古館、多田、広野、塚田、尾崎、西浜、望月
議事内容
今回は、古館さんから、ヨーロッパ文化視察旅行で調査し、また感じたヨーロッパ文化について基調講演をいただき、その後、改めて文化について議論した。
ヨーロッパ諸国は、全体的に文化に対する関心が高く、文化に係わる事業費が日本の数倍から10倍ほどになっている。また、文化との係わりにおいて、これまでの文化財保護といった係わりから、新しい文化を創造する働きが強まっている。新しい文化の創造の一つとして、若い芸術家を育てようとする動きがあり、様々な文化活動に対して賞を企画したり、格安な料金で観劇できる場を多く与えているという。ウィーンのオペラハウスでは、観劇するには最も良い場所であるローヤルボックス席の下を、格安な立見席にして、お金のない若者達にも、観劇できる機会を与えているとのこと。
- 開催日時
- 平成8年6月4日(火) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、塚田、西浜、望月
議事内容
今回も前回に引続き文化について議論した。文化を培ってきたその基本には、男性の役割が大きく寄与していたように思われる。例えば、日本文化に目を向けるならば、貴族社会が支配的であった平安時代を除いて、茶道、節句、浮世絵、歌舞伎、相撲等々男性が基本になっている文化が多い。また、文化だけではなく、哲学や思想、さらには宗教もほとんどが、男性によって生み出されてきている。このことは、これまでの社会が、男性を主体とした社会であったという社会環境重視の考えもあるであろうが、その基本には、本質的な性差がありそうだ。
女性の代表として、今回参加された広野さんの考え方によると、もちろん女性も人生や、社会的な様々な事柄に悩むこともあるが、その悩みの度合が、男性ほどは執着しないらしい。女性の目からみると、なぜあんなにも男性は悩むのかといったようなことがしばしば見受けられるらしい。どうやら、男性の方が、社会の中で、また生きていく上で、女性とは違った度合で悩んでいるようだ。このことを、凧に例えて表現するならば、女性は、地にしっかりと凧糸が止められた状態の中で、風を切って舞い上がっている凧に対して、男性の場合には、糸の切れた凧のように、不安定な状態で空中をさまよっているもののようだ。その不安定さが故に、生きていることを暗黙のうちに考え、悩んでしまうのかも知れない。そして、その不安定さの度合の大きさと、意志力との強さが、聖人として傑出した人間を生み出してきたのではないだろうか。このような人生に対する煩悶との戦いの中から、儀式、作法、芸術作品と言うものが生まれてきた。そして、それらのものは、風土の中で育まれた民族特有の美意識と結び付いて、文化と言われるものに高められてきたものと考えられる。そして、これらの文化的要素を文化たらしめて行くためには、文化を形作る人と、文化を推進する人が必要なようだ。人類の歴史を見てみるならば、芸術家と、その芸術作品を美として感じる目を持つ社会的リーダーが必要であったことは間違いないであろう。
- 開催日時
- 平成8年4月23日(火) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 古館、広野、塚田、鈴木(智)、久能、西浜、木村、佐藤、望月
議事内容
今回新たなメンバーとして、西浜様、木村様のお二人の方が参加して下さいました。酉浜様は、ダイキン工業(株)に勤務されており、新規事業開発の仕事を担当されています。機械工学が御専門で、近年とみに人文系の事柄に関心が湧いてきて、この会に参加してみようと思ったそうです。団塊の世代の代表として、大いに発言されることを期待しています。木村様は、古館さんの学生時代の無二の友人のお嬢様で、現在、お茶の水女子大学国文科の4年生です。広島県出身で、小学校時代からバレーボールをやっており、大学ではテニスの同好会に所属しているそうです。卒業論文は、源氏物語を題材に考えているとのこと。若者を代表する新鮮な意見で、大人達の眼を開かせてくれるものと期待しています。
今回は、文化について議論した。これまで、人間文化研究会においては、企業文化ということで議論したことはありますが、文化そのものを、様々な角度から議論するのは今回が始めてであり、文化の持つ様々な側面を拾い出す形で議論は進められた。
先ず始めに、文化と文明の違いについて、各人の持つイメージを語り合った。文化と文明をドイツ語で定義されたものを引用すると、文化とは、形而上の事柄と関係し、文明は形而下の事柄と関係するとのこと。我々のイメージからしても、文化と文明とを大ざっぱに区別しようとすると、文化は精神的な事柄と主に関係し、文明は、物質的な事柄と強く関係しているというイメージが浮かんでくる。それらをさらに一歩踏み入って考えてみると、文明は、移動すること、物を作ること、飲食をすること、語り合うことなど、人間が基本的に持っている機能を、物によって代行させることによって生まれて来る社会環境であるといえよう。水を飲んだり、物を食べたりする手の代わりに、食器を生み出したことは一つの文明と係わって来るであろうし、足で移動していた代わりに、馬車や車を生み出したことも一つの文明であろう。会って語り合うという基本的な機能から、電話やインターネットによるコミュニケーションへの変化は、新しい文明の発生と言えるであろう。従って、文明は、物と大きく係わっているために、早い違いの違いはあるものの、より便利なもの、より欲求を満たしてくれるものであればあるほど、民族の垣根を越えて、容易に伝搬していく。
- 開催日時
- 平成8年3月15日(金) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 多田、広野、塚田、土岐川、鈴木(智)、久能、山田、佐藤、望月
議事内容
今回は、感動をテーマに議論した。議論の中で、度々訪れた問題は、感動と感激との違いである。広辞苑によると、感動は、深くものに感じて心を動かすこと、感激は、深く感動して、気持ちが奮い立つこととある。感動が特に強いのが感激と言うことのようだ。しかし、我々の議論の中では、もう少し違った意味相があった。感激は、瞬間的に強く感じるときに用いるのに対して、感動は、時間的には感激よりもゆったりした状態で感じているようだ。また、感動は、あるものを客観視している中で感じるのに対し、感激は、自分が主体的に係わっている事柄の中から生まれてくる。例えば、ベルリンの壁の崩壊は、ドイツ人にとっては、感激的な出来事であり、それをTVでみている人達にとっては、感動的な出来事であった。TVドラマにおいても、心を打たれたものに対して、感激的なドラマであったと表現するよりも、感動的なドラマであったと表現したほうがどこかしら自然な感じがする。何人かでチームになってある事柄をやり遂げたときは、感激的であり、それを見ている人達にとっては、感動的な事柄であろう。
感激や感動には、プロセスとの係わりがある。先日ハーフマラソンに参加した多田さんは、スタートラインに立ったとき、周りの人達も自分と同じように、日々の練習を重ね、このマラソンにチャレンジしているのだということを感じて、非常に感激されたそうだ。それをただ見る者には、スタートラインで号砲を待ちかまえるランナー達の心の状態は分からないが、共に同じプロセスを経てきたランナー達には、すでに走る前に感激がある。TV画面を通して、どんなに素晴らしい映像を見たとしても、感激と言える心の状態になることは少ないが、実際に出かけて行って、美しい景色に出会ったときの感激は心を振るいおこさせるほど強いものがある。もちろんTV画面では、五感全てを通した情報を得ることが出来ないということも強い感激を呼び起こさない一つの要因ではあろうが、それ以上に、実際にその場に行くというプロセスの有無が、強い感激を起こさせるか否かの大きな要因となっているようだ。そして、私達の社会が、感激的なことが少なくなっているとしたら、結果だけを簡単に得ようとする安易な方向に、人間社会が進んでいるからなのかも知れない。
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第44回 「心の不易」
- 2005-04-08 (金)
- 1996年レポート
- 開催日時
- 平成8年11月14日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 早稲田大学国際会議場
- 参加者
- 古館、多田、広野、徳永、塚田、土岐川、鈴木、奥田、竹内、久能、武井、長谷川、西浜、小田島、小田、橋本、城芽、桐、山崎、三嶋、水野、望月(亘)、早稲田大学商学部学生23名、佐藤、望月
議事内容
今回は、人間文化研究会50回を記念して、早稲田大学国際会議場にて、生きるということ−個人と組織−と題して討議した。
生きるということは、創造と機能とが融合した生命活動なのであろうか。創造を育むものは、個人の才能であり、機能を育むものは組織の力であるように思える。何人集まってもピカソが表現した絵を生み出すことはできないであろうし、一人の力では、現在私達が日常生活の中で享受している様々な利便性を提供することはできなかったであろう。人間の社会は、一人の力でなければ生み出すことの出来ないものと、組織の力でなければ生み出すことの出来ないものが融合されて成り立っている。
- 開催日時
- 平成8年9月25日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、鈴木(智)、奥田、久能、田中、佐藤、望月
議事内容
今回は、老いをテーマに議論した。老いという言葉の意味や響さには、年とって、肉体的に退化し、動きや行動が鈍って来るというイメージが第一にあろうが、年はとっていなくても、生き生きと生きていないような状態も精神面での老いといえる。老いという響きの中には、新たな生命力が生まれて来るその活力がなくなってきている状態を表現しているように感じる。例えば、同じ生き生きと生きていないような状態であっても、その状態がある人にとっては、新たな生命を生み出すための前段階であるような時には、その状態は老いとは感じられないであろう。しかし、今まで過ごしてきた過去の遺産の上にあぐらをかいて、新たな生命力を発揮しないで惰性で生きているような人は、たとえ実年齢は老いと言える年齢ではなくても、精神的に老いの状態を迎えているといえるのではないだろうか。
この老いを老いとしてよしとしていた時代は、老いた人の中に、若年者では太刀打ちできない経験が秘められていて、その経験が、社会や企業を動かす上での原動力になっていた。経験に則った指導や経営が、組織を動かす上で重要な役割を果たしていたのである。しかし、コンピュータやロボットが導入され、様々な情報が、様々なメディアを介して移動し始め、それらの情報が、社会や企業を動かして行く原動力になってきている近年の社会変化は、もはや年輩者の経験が通用する時代ではなくなってきてしまった。一昔前なら、先輩の豊かな経験に基づく指導や行動に尊敬の目を向けていた若者達が、先輩達の全く経験しなかった分野で、先頭をきって走り始めているのである。
- 開催日時
- 平成8年7月18日(木) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 古館、多田、広野、塚田、尾崎、西浜、望月
議事内容
今回は、古館さんから、ヨーロッパ文化視察旅行で調査し、また感じたヨーロッパ文化について基調講演をいただき、その後、改めて文化について議論した。
ヨーロッパ諸国は、全体的に文化に対する関心が高く、文化に係わる事業費が日本の数倍から10倍ほどになっている。また、文化との係わりにおいて、これまでの文化財保護といった係わりから、新しい文化を創造する働きが強まっている。新しい文化の創造の一つとして、若い芸術家を育てようとする動きがあり、様々な文化活動に対して賞を企画したり、格安な料金で観劇できる場を多く与えているという。ウィーンのオペラハウスでは、観劇するには最も良い場所であるローヤルボックス席の下を、格安な立見席にして、お金のない若者達にも、観劇できる機会を与えているとのこと。
- 開催日時
- 平成8年6月4日(火) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、塚田、西浜、望月
議事内容
今回も前回に引続き文化について議論した。文化を培ってきたその基本には、男性の役割が大きく寄与していたように思われる。例えば、日本文化に目を向けるならば、貴族社会が支配的であった平安時代を除いて、茶道、節句、浮世絵、歌舞伎、相撲等々男性が基本になっている文化が多い。また、文化だけではなく、哲学や思想、さらには宗教もほとんどが、男性によって生み出されてきている。このことは、これまでの社会が、男性を主体とした社会であったという社会環境重視の考えもあるであろうが、その基本には、本質的な性差がありそうだ。
女性の代表として、今回参加された広野さんの考え方によると、もちろん女性も人生や、社会的な様々な事柄に悩むこともあるが、その悩みの度合が、男性ほどは執着しないらしい。女性の目からみると、なぜあんなにも男性は悩むのかといったようなことがしばしば見受けられるらしい。どうやら、男性の方が、社会の中で、また生きていく上で、女性とは違った度合で悩んでいるようだ。このことを、凧に例えて表現するならば、女性は、地にしっかりと凧糸が止められた状態の中で、風を切って舞い上がっている凧に対して、男性の場合には、糸の切れた凧のように、不安定な状態で空中をさまよっているもののようだ。その不安定さが故に、生きていることを暗黙のうちに考え、悩んでしまうのかも知れない。そして、その不安定さの度合の大きさと、意志力との強さが、聖人として傑出した人間を生み出してきたのではないだろうか。このような人生に対する煩悶との戦いの中から、儀式、作法、芸術作品と言うものが生まれてきた。そして、それらのものは、風土の中で育まれた民族特有の美意識と結び付いて、文化と言われるものに高められてきたものと考えられる。そして、これらの文化的要素を文化たらしめて行くためには、文化を形作る人と、文化を推進する人が必要なようだ。人類の歴史を見てみるならば、芸術家と、その芸術作品を美として感じる目を持つ社会的リーダーが必要であったことは間違いないであろう。
- 開催日時
- 平成8年4月23日(火) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 古館、広野、塚田、鈴木(智)、久能、西浜、木村、佐藤、望月
議事内容
今回新たなメンバーとして、西浜様、木村様のお二人の方が参加して下さいました。酉浜様は、ダイキン工業(株)に勤務されており、新規事業開発の仕事を担当されています。機械工学が御専門で、近年とみに人文系の事柄に関心が湧いてきて、この会に参加してみようと思ったそうです。団塊の世代の代表として、大いに発言されることを期待しています。木村様は、古館さんの学生時代の無二の友人のお嬢様で、現在、お茶の水女子大学国文科の4年生です。広島県出身で、小学校時代からバレーボールをやっており、大学ではテニスの同好会に所属しているそうです。卒業論文は、源氏物語を題材に考えているとのこと。若者を代表する新鮮な意見で、大人達の眼を開かせてくれるものと期待しています。
今回は、文化について議論した。これまで、人間文化研究会においては、企業文化ということで議論したことはありますが、文化そのものを、様々な角度から議論するのは今回が始めてであり、文化の持つ様々な側面を拾い出す形で議論は進められた。
先ず始めに、文化と文明の違いについて、各人の持つイメージを語り合った。文化と文明をドイツ語で定義されたものを引用すると、文化とは、形而上の事柄と関係し、文明は形而下の事柄と関係するとのこと。我々のイメージからしても、文化と文明とを大ざっぱに区別しようとすると、文化は精神的な事柄と主に関係し、文明は、物質的な事柄と強く関係しているというイメージが浮かんでくる。それらをさらに一歩踏み入って考えてみると、文明は、移動すること、物を作ること、飲食をすること、語り合うことなど、人間が基本的に持っている機能を、物によって代行させることによって生まれて来る社会環境であるといえよう。水を飲んだり、物を食べたりする手の代わりに、食器を生み出したことは一つの文明と係わって来るであろうし、足で移動していた代わりに、馬車や車を生み出したことも一つの文明であろう。会って語り合うという基本的な機能から、電話やインターネットによるコミュニケーションへの変化は、新しい文明の発生と言えるであろう。従って、文明は、物と大きく係わっているために、早い違いの違いはあるものの、より便利なもの、より欲求を満たしてくれるものであればあるほど、民族の垣根を越えて、容易に伝搬していく。
- 開催日時
- 平成8年3月15日(金) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 多田、広野、塚田、土岐川、鈴木(智)、久能、山田、佐藤、望月
議事内容
今回は、感動をテーマに議論した。議論の中で、度々訪れた問題は、感動と感激との違いである。広辞苑によると、感動は、深くものに感じて心を動かすこと、感激は、深く感動して、気持ちが奮い立つこととある。感動が特に強いのが感激と言うことのようだ。しかし、我々の議論の中では、もう少し違った意味相があった。感激は、瞬間的に強く感じるときに用いるのに対して、感動は、時間的には感激よりもゆったりした状態で感じているようだ。また、感動は、あるものを客観視している中で感じるのに対し、感激は、自分が主体的に係わっている事柄の中から生まれてくる。例えば、ベルリンの壁の崩壊は、ドイツ人にとっては、感激的な出来事であり、それをTVでみている人達にとっては、感動的な出来事であった。TVドラマにおいても、心を打たれたものに対して、感激的なドラマであったと表現するよりも、感動的なドラマであったと表現したほうがどこかしら自然な感じがする。何人かでチームになってある事柄をやり遂げたときは、感激的であり、それを見ている人達にとっては、感動的な事柄であろう。
感激や感動には、プロセスとの係わりがある。先日ハーフマラソンに参加した多田さんは、スタートラインに立ったとき、周りの人達も自分と同じように、日々の練習を重ね、このマラソンにチャレンジしているのだということを感じて、非常に感激されたそうだ。それをただ見る者には、スタートラインで号砲を待ちかまえるランナー達の心の状態は分からないが、共に同じプロセスを経てきたランナー達には、すでに走る前に感激がある。TV画面を通して、どんなに素晴らしい映像を見たとしても、感激と言える心の状態になることは少ないが、実際に出かけて行って、美しい景色に出会ったときの感激は心を振るいおこさせるほど強いものがある。もちろんTV画面では、五感全てを通した情報を得ることが出来ないということも強い感激を呼び起こさない一つの要因ではあろうが、それ以上に、実際にその場に行くというプロセスの有無が、強い感激を起こさせるか否かの大きな要因となっているようだ。そして、私達の社会が、感激的なことが少なくなっているとしたら、結果だけを簡単に得ようとする安易な方向に、人間社会が進んでいるからなのかも知れない。
- 開催日時
- 平成8年1月26日(金)14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、田中、武井、望月
議事内容
今回は、今年初めての会合ということもあって、人間の中に潜む不易なものについて、思い付くままに議論してみた。
田中様が顔から相性を判断することが御専門なので、顔というものが、時代によって変化しやすいものかどうかということに関して話しが始まった。議論していくと、顔の骨格の変化は少なく、骨格は遺伝と大きく係わっているけれども、顔の筋肉は、その人の一生の中で様々に変化し、そのために表情は変化するようだ。そして、その表情は、人の心のあり様を物語っているように思える。同じ宗教を信じている人達には、どこかしら似たような表情を感じるし、仏様の顔も、人の心を優しくさせてくれる穏やかさがある。その穏やかな表情を、和辻哲郎は嬰児の顔と類似させているが、無垢の心を抱いた者に共通した表情であるようだ。
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