- 2005-04-08 (金) 0:58
- 1996年レポート
- 開催日時
- 平成8年1月26日(金)14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、田中、武井、望月
議事内容
今回は、今年初めての会合ということもあって、人間の中に潜む不易なものについて、思い付くままに議論してみた。
田中様が顔から相性を判断することが御専門なので、顔というものが、時代によって変化しやすいものかどうかということに関して話しが始まった。議論していくと、顔の骨格の変化は少なく、骨格は遺伝と大きく係わっているけれども、顔の筋肉は、その人の一生の中で様々に変化し、そのために表情は変化するようだ。そして、その表情は、人の心のあり様を物語っているように思える。同じ宗教を信じている人達には、どこかしら似たような表情を感じるし、仏様の顔も、人の心を優しくさせてくれる穏やかさがある。その穏やかな表情を、和辻哲郎は嬰児の顔と類似させているが、無垢の心を抱いた者に共通した表情であるようだ。
顔と心との係わりを論理的に考えてみると、言葉と心との係わりに似ているように思える。言葉は、その人の心の世界と係わっているが、その心を言葉として表現しているのは、口や舌の筋肉活動を司っている脳の部分である。同じように、表情も心の有り様が、顔の筋肉を司っている脳細胞を刺激して生まれてくるものであるから、自ずから、その人の心の有り様が、表情となって現れてくるのであろう。心の有り様は、ただ表情だけではなく、その人の態度や行動にも表現されている。表情や態度は、心が外の世界に働きかけていることであるが、逆に、外からの刺激が心の有り様に影響することも大いに考えられよう。ヨガや太極拳、気功といったものは、外の世界から心の世界を整えようとする営みであろう。これらの事を考えてくると、私達の心は、体全体を通して入ってくる刺激によって、大いに影響を受けているということが分かってくる。
個人的なことであるが、ワープロを使ってものを考えているときに、指の動きがスムーズになってくるにしたがって、発想が豊かになってくることをしばしば経験する。指の動きが、脳を刺激し、それが、創造活動を活性化しているのではないだろうか。私達の心の世界と、外界とは、私達の体を架け橋として、密接につながれているように思える。体験することによって、心には、生きた情報が蓄積されていくのであろうが、多くの情報が、体験することなく入ってくる情報化の時代においては、心が、外界との係わりを切られた状態で、知識だけが豊かになってしまうバーチャルな世界が広がっていくように思える。
TVアナウンサーの表情を見ていると、経験豊かなアナウンサーになってくるにしたがって、表情が豊かになってきていることを感じる。表情だけではなく、体全体で語りかけてくる迫力を感じさせるベテランアナウンサーもいる。私達のコミュニケーションは、ただ言葉だけではなく、知らず知らずのうちに身振りや態度で様々なことを表現し、言葉以外で表現されているものを感じ取っているのであろう。そして、言葉以外で表現されたものの中に、言葉では表現されない感性的な事柄を感じ取ることが出来るのではないだろうか。インターネットの出現によって、通信によるコミュニケーションが益々活発になっていくであろうが、言葉以外の表現によって発信し、受け取っている感性的な情報を求めて、人は今まで以上に直接会って語ることを望むようになってくるのかもしれない。
今、若者達に人気な情報誌として、東京ウォーカがある。この情報誌は、様々なイベント情報がのっていて、男性にも女性にも人気があるらしい。今までのように、何か具体的な目的があって、それを求めて雑誌を見るのではなくて、まるで、商品カタログでも見るかのような感覚でみているらしい。そこには、自分の新しい感性を目覚してくれる、新しい世界との出会いを期待しているような雰囲気さえ感じる。それとよく似た感覚を、デパートや本屋さんなどで私達もよく経験している。あるものを買おうと目的を持って行っても、それを買うことだけで済ますのではなく、何か新しい出会いを求めて歩き回る。それは、ウィンドーシヨツピングの感覚そのものである。今までのように、目的があって何かを求めるのではなく、自身の中に潜む感性を刺激してくれるものを求めて歩き回るのである。それは、創造性の世界と結び付いているように思える。旅を愛した芭蕪は、旅をすることによって出会う未知なる世界が、自身の感性をくすぐり、全く新しい心模様を求めて旅を愛したのではないだろうか。その新しい感性の世界を、俳句によって表現したのであろう。若者達が東京ウォーカに求めているものは、形は異なっていても、芭蕉が旅に求めていたものと相通ずるところがありそうだ。そして、この動きは、機能を求める時代から、感性を求める時代への変化であり、若者達の中に、どこかしら芸術と係わりのある心が芽生え始めていることでもあるように思える。そのことは、私達が、私達のこころのより深いところにあって、生命との係わりがより強い何かを求めようとする動きでもあるようだ。
以上のように、私達は、通信との係わりの中で情報を追い求める一方で、五感を通して与えられる新鮮な刺激を求めて、新たな旅立ちを始めているのかも知れない。遍路が新たな魅力として見直されてきたり、山登りが、高齢者の人達にとって静かなブームになってきたりしているのも、体を動かして、五感で感じる感性の世界に、通信情報だけでは得られない、えも言われぬ生命の喜びを感じることができるからではないだろうか。
最近の子供達の感激の中に、宇宙船エンデバーの中での宇宙授業がある。そこには、目から鱗が落ちるほどの生きた教育があったように思える。子供達の純粋な心の中には、大人以上に感激を求める心が秘められているのであろう。幼少のころ、祖父や祖母から聞く昔話に、夢中になり、感激した経験を持つ大人達は多いのではないだろうか。核家族化が進み、TVやファミコン等、自分自身で楽しむことの出来るものによって囲まれている現在の子供達にとって、大人達から、直接感激的なことを聞き、体験する機会はかなり少なくなっているように思える。しかし、私達の心の深層には、感激し、感激を与えることを憧れる心が秘められていて、今その心が次第に芽を出してきているように思える。物を欲しがる欲求から、感激を与えたいという欲求が次第に高まってきているようだ。ボランティア活動の高まりや、スポーツへの人気の高まりは、シナリオのない感激を与えたい、味わいたいとする見えざる欲求なのであろう。そして、その高まりは、コミュニケーションが、単に意味を伝えるものであったものから、感激を伝え、感激を共有しあうものへと変化して行く気配を感じさせる。
以上、思い付くままに、基本的には心の不易を念頭に置きながら議論してきたが、表情、精神と肉体、情報と体験、感性、芸術、感激、ノンバーバルコミュニケーションといったキーワードが浮かび上がってきた。これらの中から、次回は感激との係わりも含め、「感動」をテーマに話し合ってみたいと思います。
次回の打ち合せを3月15日(金)とした。
以上