- 2005-04-08 (金) 0:52
- 1991年レポート
- 開催日時
- 平成3年12月12日(木) 11:00〜18:00
- 開催場所
- 国立民族学博物館、大阪ガス エネルギー・文化研究所(CEL)、サントリー不易流行研究所
- 参加者
- 古館、多田、相田、佐藤、望月、赤川(不易流行研究所)、隅野(CEL)
討議内容
今回は、久しぶりの大阪会合であったために、古館さん、佐藤さんのお世話により、国立民族学博物館、CEL、不易流行研究所の見学、及び、見学後の感想などについて意見交換を行った。
国立民族学博物館では、情報管理施設の宇野専門員、宇治谷文部技官による説明及び館内案内を受けた。普段の見学ではなかなか見られない、博物館の裏舞台をじっくりと見学することが出来た。館内のほとんどのスペースが、世界の各地から集められた、道具、衣装、祭事品等で埋まっており、収集した物の管理のご苦労を痛切に感じた。博物館での基本方針としては、梅棹館長の言う「人が捨てるものを集める」ということらしく、一度集めた物は捨てられないとのこと。船、御輿、馬車など大きな物もあり、このまま増え続けたら、いくらスペースがあっても足りないなという印象を受けた。また、物的な管理もさることながら、収集した物全てを写真にとったり、画像信号処理や、文章処理をし、膨大なデータベースを構築し、維持していくための管理が大変なことであると感じた。研究者がスライドに写してきたものを、再度画像信号処理し、そのどちらも保存しておくという二重三重の保存体制であるが、益々ハイテク化されていく時代の中で、一つの情報が、多種多様な形で記述され、全てが捨てられないまま、保存されていくことを考えると、ここのシステムの将来が、増殖細胞のようなものに思えてきた。ここでのデータベースの当面の目標は、ある物体を、三次元画像処理し、検索者が、立体画像で引き出せるシステムと、いままのキーワードによる検索を画像イメージによる検索システムの構築であるとのこと。そのためには、画像イメージを何等かな形で具現化する中間言語のようなものの開発が必要とのこと。
普段ならなかなか見れない裏舞台が見学でき、博物館を維持していく人達のご苦労を生の声で聞けたことは、有難いことであった。企画された佐藤さんに再度感謝致します。裏舞台見学の後、表舞台を各自、各様に見学し、四時間に及ぶ国立民族学博物館の見学会の幕を閉じました。
その後、大阪ガス(株)エネルギー・文化研究所、サントリー不易流行研究所を訪問し、以下のような意見交換を行った。
道具は、環境と一体となって初めて意味をなすものであり、道具だけ切り放して持ってきても、道具の持つ隠された意味が消え去ってしまうのではないか。そのためには、道具の使われていた環境や、人々の生活様式をビデオなどで把握しておくことが必要であろう。しかし、それでもまだ本物ではなく、湿度や、気温といった、その環境状態までも把握しておく必要があり、本当のことを知るためには、現地に行くことしかないのかも知れない。民博でこれから行おうとしている三次元画像処理も、限りなく実態に近い情報を残そうとする人間のこころの中を支配する見えざる力の働きなのかも知れない。そして、人間は、今後益々限りなく実態に近い情報を求めて技術開発を行い、実態を求めて益々移動するようになっていくのであろう。
道具が変化し、環境が変化していく状態を見るにつけ、何をもって進化とするか、また、変化することが良いという価値観の本質はどこにあるのかをあらためて考えてみる必要があろう。この変化は、民博のデータベースにみられるように、物への価値から、人間の知、情報への価値へと変化してきている。資本主義から、知本主義への変化である。この価値観の変化の中で、重要なことは、知の外在化をどの様に行っていくかであり、米国から生まれてきている知的所有権の問題が、益々重要なことになってくることを予感させる。
小説が映画化されたとさには、元々イメージしていたものとの差異が大きいが、マンガが映画化されたときには、アニメ的な表現であり、イメージの変化は余り起きない。これは、画像は、外部からの情報量が多いだけ、人間の内面の情報量(創造性)が少なく、イメージが固定されてしまうことによろう。これに対して、文章情報は、人間の創造性を高め、それだけ、イメージが各人各様で、多様化しているためだと考えられる。
視覚情報でも、マンガのように、ストーリー性のある情報と、芸術作品のように、感性に直接働きかける情報がある。ストーリー性のある情報は、上で述べたように、イメージを固定してしまう働きがあるが、感性に直接働きかける情報は、各人によって異なる印象を生み出し、イメージの多様性が生まれてくる。このことは、文章表現においても同じことで、感性的要素が強いものほど、イメージの多様性が生まれてくる。小説より、俳句の方が、イメージの多様性は強くなる。しかし、本物の芸術作品においては、小説も、俳句も、通ずるものは一つであり、万人に共通なものになってくるのかも知れない。また、文章表現でも、ビジネスに係わる文章のようなものは、感性とは関係なく、機械的な表現となっており、多くの人に共通するものとなっている。そこには、曖昧さを許すイメージはほとんど存在しない。しかし、ビジネスに係わる文章は、そのビジネスに係わる人にだけしか意味をなさないものであり、時代と共に変化していくものでもある。情報と一口で言っても様々な形があり、各種の情報を、我々は、我々の内に持っている様々なフィルターによって捉え、感じているのであろう。
(最後の節は、望月の独り言)
今後のこの研究会の進め方について話し合った結果、今までの活動を振り返ってみると、自由な雰囲気の中でやったことによって、結果として大きなものが見えてきているとの意見が大勢をしめ、成果を期待しての目的志向型ではなく、今までのように、自由に討論する形態を継続していくことにした。なお、夜の部は、古館さんに大変お世話になりました。この場を借りてお礼を申し上げます。
次回の日程はまだ未定ですが、テーマとして、今回の議論の中でも上がった、「なぜ変化することを良いとする価値観があるのか」を取り上げて考えてみるのも良かろうと思います。
メンバーの皆様一年問本当にご苦労様でした。良いお年をお迎え下さい。また、来年も人間文化研究会よろしくお願い致します。
以上