- 2005-04-08 (金) 0:52
- 1992年レポート
- 開催日時
- 平成4年1月31日(金) 14:00〜17:00
- 開催場所
- サントリー(株)東京支社
- 参加者
- 古館、霧島、相田、高岡、佐藤、望月
討議内容
今回は、相田様の紹介で、元産能大学教授の高岡様に参加して戴きました。高岡様は、人間のこころの問題などに関して、多角的に研究されており、自己啓発や、感性に係わる数多くの著書があります。今回のテーマである、「なぜ変化することを良いとする価値観があるのか」について、主として感性的側面からご意見を伺うことが出来ました。討議の概要は以下の通りです。
特別に何かしたいという欲求もなく、野望も抱かず淡々と生活しているある大学教授の生活態度を変化しないことの良さの一例として取り上げた。メンバーの多くは、そのように、経済的な心配もなく、社会的に認められようとする欲望もなく、全く異なる社会を見てみたいといった欲望もなく、ただ、あるがままに生きて行くことが出来たら幸せだろうという感想を持った。これらの議論を通じて、思ったことは、変化することがよいとかいけないとかいうことではなく、生きていることが幸せであるということが基本にあって、その幸せを外の世界に表現した時に、ある人にとっては、全く変化の無い生活態度であったり、また、他の人にとっては、絶えず新しいものを求め、チャレンジしている変化の多い態度になったりするもののように思えた。
人間は、科学技術の発展にともなって、進化してきているという錯覚を持ってしまったが、その物質的な発展の陰で、人類は、元々自然に持っていた感性的なものを失ってきてしまったのではないだろうか。植物や動物、そして、他人のこころを、ある直感的なもので理解できた能力が、次第に退化し、見えていたものが、次第に見えなくなってきているのではないだろうか。科学の目で捉えることの出来るものに対しては、多くの人は、賛同の意を表すが、人間の本来持っている感性的なものでみる世界については、多くの人は、形而上学的なこととして簡単に片付けてしまっているように思える。見える世界での発展として捉えられる変化は、見えない世界での退化となっているのかも知れない。その一例として、船乗りと、天気予報の話が取り上げられた。近年の天気予報は、衛星を使ったり、科学的なデータ分析を駆使したりして、かなり正確に予測できるようになってきている。しかし、時として外れることもあって、漁獲に大きく影響を与えることがある。その様なとき、船乗りは、漁獲の減少を、天気予報が外れたことに転化させ、自分達の過失として捉えることをしない。昔の船乗りが聴いたら、さぞかし残念に思うことであろう。昔の船乗り達は、自分達の感性によって、天気の状況を予め予測し、漁労に出かけて行ったのである。同じ様なことは、過保護の基で育てられた人間が、人間の本来持っている考えようとする知恵が育たず、自分一人では何もできない人になってしまうケースにもみられる。教えられることに慣れてしまっている子供達が、自らの中から何かを生み出そうとする自立心が失われてしまわなければよいがと願うのである。
我々に変化を促している原動力は一体なんであるのだろうか。原始時代の生活を考えると、石や、小枝を道具としていた時代から、石を工作し、小技を工夫して新しい道具を作るようになってきた。この変化をもたらしたものは、人間の考える能力であり、新しいものを創造する力である。そして、この創造する力は、他人から教わったわけではなく、人間として、先天的に備わった能力であるように思える。変化を生み出す原動力として、創造性以外に、夢がある。何かを夢みて、その実現に向けて行動する過程で、様々な変化が生まれてくる。また、現在のように、情報化が世界的な規模で進むと、生活レベルの民族格差が情報として流れ、生活レベルの低い民族からは不満が生まれ、その不満が変化を生み出す行動力となって現れてくる。得られた情報を、自分の中に先天的に、あるいは後天的に育った価値観によって判断したとき、そのギャップを埋めようとするところに、大きな変化を生み出す原動力がありそうだ。
これらのことを考えると、変化の仕方には二つの仕方がありそうだ。一つは、物を生み、生物を生み出した変化であり、これは生物の進化論の基本を形作るものである。この変化に対しては、人間の意志はどう立ちはだかることも出来ず、大きな自然の力のままに揺れ動くしかない。もう一つの変化は、人間の内面から生まれてくるもので、先に述べたように、道具を生み出してくるような、創造的、夢的なものを原動力として変化してきているものである。科学技術のもたらした変化はまさに後者の変化になろう。そして、後者の変化をもう少しよくみてみると、そこにも二つの異なった変化があるように思える。一つは、近視眼的な我欲が基本にあって、行動として働きかける変化であり、もう一つは、人類の将来を見通し、人類の幸福に貢献するための変化である。もう少し具体的に表現すると、前者は、営利追求を第一の目標として生まれた変化であり、後者は、人々の幸福のための変化である。夢や、人類の幸福を基本にして生まれてきた科学技術によってもたらされた変化も、人間個人の手を離れ、営利を主目的とした企業の傘の基では、前者の変化を生み出しているように思える。
しかし、営利追求を主目的にした変化が、地球環境を破壊し、その結果として、人類の生命維持に危険性をもたらしていることに気が付き始めた人々は、今や人々にとっての幸福のための変化を目指そうとするようになってきている。一昔前までは、企業内において、個々人の感性的なものに対する表現がタブー視されていたが、現在では、自分の趣味や感性的な考えを披露することに異和感を感じない状況になってきている。この辺にも、人々のこころの中に、営利追求至上主義から、個々人の幸福、そして、人々の幸福を求めようとする動きが感じられる。
変化に対して、伝統という言葉がある。伝統という言葉のもつ意味には、昔から変わらないものというニュアンスがある。しかし、よく考えてみると、伝統という言葉の意味の中には、長い間かかって、完成された何かがそこにはあるような気かする。そして、何か完成されたものを維持して行くことが伝統であるように思える。伝統が伝統として成り立つためには、完成美を目指す長い間の変化の蓄積があるようだ。そして、伝統の中にも、不易と流行的なものの要素があり、例えば、祭りにしても、お御輿を担ぐときのかけ声や、様式が変化しても、そこには、昔から変わらずに生き続けている伝統としての何かが存在し続けている。
伝統に限らず、我々の身の回りには、昔から変わることの無い慣習がある。国家としての慣習、社会的な慣習、企業としての慣習、そして、家庭の中での慣習と、様々な慣習の中で生きている。そして、その慣習の中で生きていくことにどこかしら安堵感を覚えるものである。しかし、自分の中で芽生えてきた新しい感性が、その慣習に合わなくなってきたとき、人は様々な迷いに陥るのではないか。不安や、悩みの多くは、ひょっとしたら、慣れ親しんで来た慣習からの離脱が余儀なくされることからくるのかも知れない。
パソコン通信などをみてみると、互いに意見が合う人同士の通信が多くなり、自然に考えを同じにする人達が集まってくるようだ。自分を変化させ、多種多様な人との係わりを積極的に求めるのではなく、自分を変化させることなく、落ち着くことの出来る状況だけ求めているように思える。離婚率の増加や、転職ブームの到来は、単に未知なる自分の能力を求めての自己実現的な動機付けからだけではなく、自分自身を変化させ、幅広い人間として成長していく努力を怠っていることの一つの現れのようにも思えるのであるが。
我々の中に秘められた感性は、様々な状況との巡り会いによって、全く予期しなかった感覚を生み出すものである。理性でものが生まれてきた時代から、体験を基に秘められた感性を湧現することによって新しいものが生まれてくる時代になっているようだ。人間の持つ様々な感性を先取りし、働くものの企業に於ける生き方についてシュミレートしているのが文化研究所の一つの側面であるといえよう。
これ以外に、断片的ではありますが、時間の問題、空間の問題についての意見が出されました。特に時間に関しては、CELさんの特集「時間」の中に、時間に関する様々な意見が述べられていて参考になるかと思います。その中には、変化を時間との係わりで捉えているものもあり、今回討議した「変化」について、さらに時間との係わりで考えてみるとさらに面白い討議が出来るかと思います。
次回の研究会を3月27日(金)東京にて開催の予定としました。
配布資料
CEL 特集「時間」 VOL.17 OCTOBER 1991
以上
- 新しい記事: 第13回 「変化」
- 古い記事: 第11回 「道具と変化」