- 2005-04-08 (金) 0:59
- 1996年レポート
- 開催日時
- 平成8年4月23日(火) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 古館、広野、塚田、鈴木(智)、久能、西浜、木村、佐藤、望月
議事内容
今回新たなメンバーとして、西浜様、木村様のお二人の方が参加して下さいました。酉浜様は、ダイキン工業(株)に勤務されており、新規事業開発の仕事を担当されています。機械工学が御専門で、近年とみに人文系の事柄に関心が湧いてきて、この会に参加してみようと思ったそうです。団塊の世代の代表として、大いに発言されることを期待しています。木村様は、古館さんの学生時代の無二の友人のお嬢様で、現在、お茶の水女子大学国文科の4年生です。広島県出身で、小学校時代からバレーボールをやっており、大学ではテニスの同好会に所属しているそうです。卒業論文は、源氏物語を題材に考えているとのこと。若者を代表する新鮮な意見で、大人達の眼を開かせてくれるものと期待しています。
今回は、文化について議論した。これまで、人間文化研究会においては、企業文化ということで議論したことはありますが、文化そのものを、様々な角度から議論するのは今回が始めてであり、文化の持つ様々な側面を拾い出す形で議論は進められた。
先ず始めに、文化と文明の違いについて、各人の持つイメージを語り合った。文化と文明をドイツ語で定義されたものを引用すると、文化とは、形而上の事柄と関係し、文明は形而下の事柄と関係するとのこと。我々のイメージからしても、文化と文明とを大ざっぱに区別しようとすると、文化は精神的な事柄と主に関係し、文明は、物質的な事柄と強く関係しているというイメージが浮かんでくる。それらをさらに一歩踏み入って考えてみると、文明は、移動すること、物を作ること、飲食をすること、語り合うことなど、人間が基本的に持っている機能を、物によって代行させることによって生まれて来る社会環境であるといえよう。水を飲んだり、物を食べたりする手の代わりに、食器を生み出したことは一つの文明と係わって来るであろうし、足で移動していた代わりに、馬車や車を生み出したことも一つの文明であろう。会って語り合うという基本的な機能から、電話やインターネットによるコミュニケーションへの変化は、新しい文明の発生と言えるであろう。従って、文明は、物と大きく係わっているために、早い違いの違いはあるものの、より便利なもの、より欲求を満たしてくれるものであればあるほど、民族の垣根を越えて、容易に伝搬していく。
これに対して、文化は、移動する、食べるといった人間の持つ動物的な機能との係わりではなく、より人間的、より精神性の高いものとの係わりである。そして、それは、気候や風土、宗教(宗教もまた、気候や風土の影響を受けて生まれてきているものと考えられるが)といったものと係わり、民族によって大きく異なったものとなる。また、その誕生が、意識できる世界との係わりだけではなく、真、善、美といった、感性的な事柄と深く結び付いているために、単に、表面的に現れる機能だけをまねても、本質的なものは、異民族の中に浸透して行き難いものである。
ジャズを本場ニューオリンズで黒人達の生演奏で聞くと、何とも言えない味わい深く、感激するが、日本人が演奏するジャズには、どこかしら、心の底を打つ響きを感じることが出来ないという。全てがそうではないであろうが、ジャズという音楽には、黒人達の生活に密着した響きとリズムが込められているように思える。特有な風土の元で、長い時間をかけて作り上げられてきた生活の中から生まれてきたものには、言葉や記号では表現でさえない何かを含んでいる。その何かの存在こそ、文化の源ではないだろうか。
これはちょっと余談になるが、人間の言葉を認識したり、人間の言葉を合成したりする音声認識や、音声合成の技術が発達してきているが、その技術が係わることのできる領域は、今のところ言葉の意味の領域であって、感情に係わる領域は、全く手の届かない領域となっている。確かに言葉の意味は、機械によって生み出すことはできるが、感情をコンピュータで創り出すことは、今のところ不可能に近い。言葉は左脳の機能と係わりが強いが、その言葉に込められた感情は右脳と関係しているらしい。左脳と係わっているものに対しては、科学のメスが効くが、右脳と係わっているものに対しては、今のところ科学の入り込めない領域なのかも知れない。言葉の持つ機能的意味を文明に例えると、言葉の響きによって生まれて来るイマジネーションをも含んだ意味相が文化なのではないだろうか。俳句は、その表面的な意味相は翻訳できても、俳句に込められたイマジネーションの世界を翻訳することは難しい。そして、そのイマジネーションこそ、風土を一にした同一民族であるからこそ、共通なものとして生まれて来るものであり、そのイマジネーションと係わる世界が、文化と極めて係わりの深いものになっているのではないだろうか。
文化には、単に物理的な機能だけではなく、そこに、人間のより崇高な人格への営みが係わっていることが必要なようだ。この文化論は、儒教や仏教の影響を強く受けている日本人特有な考え方かも知れないが、日本文化と言えるものの多くは、先人の崇高なる人格形成の結果として生まれてきたものが多い。茶の文化にしても、茶そのものの機能は、アジア大陸から持ち込まれたものではあるが、茶を文化にまで高めたのは、茶を通して、より崇高な心の世界を模索した人達の努力の賜であるように思える。俳句、弓道、柔道、剣道といったものも、そこには、機能以上の精神修養と結び付いた形がある。そして、この精神牲の高さが故に、文化には、高い価値をおいているのではないだろうか。
文化は、食べる飲むといった動物的な意味での生命維持には寄与しはしないが、それでも文化が、人間生活の中に根付くと言うことは、そこには、動物的な欲求とは違った、より人間的な欲求を満たしているからこそであろう。そして、それは、自身の中にある悠久なる宇宙生命とどこかしら共鳴するものがあるからのように思える。人間には、世俗的世界の中で生きている自我と、悠久なる宇宙生命と共鳴する世界にある自己とがあって、この二つが絶えず葛藤しながら生きている。自我は、知識や社会的地位が高まるにしたがって強くなっていき、そこでは、時間に束縛された価値観がこころを支配する。 これに対して、自己の世界は、森羅万象と共鳴する世界であり、悠久なる世界が広がっている。自己の世界を自分の心の中に確立するためには、自我に捕らわれた心を解放する必要があるが、それは、通常の場合、ほとんどの人が出来ないことでもある。芸術作品は、自己の世界を求めて、煩悶に煩悶を重ね、苦しみ抜いた未に、自我の殻を撃ち破り、自己の世界へと歩み始めた人の中から生まれて来るように思える。その作品には、悠久なる生命が宿り、そのために、時代を越え、空間を越えて、多くの人の心に感動をもたらすものとなる。そのことは、作品としての形に現れない弓道、武道といったものの中においても、形となって表現されて来る。そうして生まれてきたものが、一般生活者の中に浸透していくことによって、民族特有な文化として花開いているのではないだろうか。多くの人達は、自我の世界にあっても、自己の世界を垣間見ることが出来るように、自己の世界が生んだ芸術作品を評価することが出来る。その評価することが出来ることこそ、一人一人の中に、悠久なる生命が宿っている証でもあろう。我々は、文化によって、人間の中に秘められた、崇高なる精神世界を垣間見、それを求めようと努力するのではないだろうか。
男社会の中にあっては、文化を語るとき恥ずかしさを感じたり、どこかしら女性っぽく感じたりするものである。ピアノ演奏やバレエ等も、文化と係わるものであるが、小中学生の頃、ピアノを練習している男の子を見ると、どこかしら女性っぽく感じたものである。女性、男性のどちらがよいということではなく、文化と女性と言うことと何等かな係わりがありそうだ。文化の基盤には、男性が多く係わっていることを考えると、「文化とは、男性の女性化である」とも言えよう。
この点に関しては、様々な反論や、意見があるように思われます。文化と性差、日本文化と西欧文化、都市文化と地方文化など、まだ議論する点が多々ありますので、次回も「文化」と題して議論したいと思います。
次回の開催日を6月4日(火)とした。
以上