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第66回 「美しさ」

開催日時
平成11年3月25日(木) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、土岐川、桐、下山、前田(園)、前田(絵)、西村、岸、佐藤、望月

討議内容

今回は、新たに、岸さんが参加してくれました。岸さんは、ジェイアール東日本企画に勤められていて、広告企画等を担当されているとのこと。趣味は、スキー、クロスカントリーなどに今は夢中になっているとのことです。この研究会に新たな風をもたらしてくれるものと期待しています。

今回は、美しさとはということで議論した。私達が美しく感じるものとしては、空の青さや花の美しさといったように、自然のものに対して感じられる美しさと、人の表情、子供達の目といったように、人間のこころの世界と深く係わったものに対して感じられる美しさとがある。自然に対する美しさは、どちらかというと、理屈抜きで感じらられる美しさがそこにはあって、それは人類に共通したもののようにも思える。しかし、同じ花でも、ある民族にとっては美しく感じられ、ある民族にとっては、美しさよりもむしろ忌み嫌われたものとして捉えられることもある。花を美しいと感じるその美しさの根底には、人類に共通した美しさの原点のようなものが存在しているのであろうが、その原点が、具体的な美しさとして私達のこころを捉えるときには、長い民族の歴史、それは風土と深く係わってくるのであろうが、その歴史を無意識の世界の中に宿していて、その歴史との共鳴の中から美しさが生まれてくるのではないだろうか。

日本人にとって、桜の淡い色合いは、奥ゆかしさや端麗さといったこころと共鳴する何かを感じさせるものがある。その奥ゆかしさを美しいとめでる。真っ赤なバラの花や、咲き乱れるチューリップの花も確かに美しいけれども、日本人にとっては、淡い、あまりはでではない色合いのものの方が、こころ落ちつかせ、より強く美しさを感じさせるのかもしれない。逆に、太陽が輝き、色彩鮮やかな花々に囲まれた中で生活している南洋の人達にとっては、淡い色合いよりも、はっきりとしたはでな色合いの方に強く美しさを感じとっているのかもしれない。美しさは、それぞれの民族の心の中にあって、こころ落ちつかせてくれる何かなのだろう。そこには、人類のこれまで過ごしてきた長い歴史の中で培われた故郷への思いのような、郷愁にも似たこころが、美しさと係わってはいないだろうか。

美しさというのは、物差しのようなものなのかもしれない。時間や空間が、時計や物差しによって計られるように、美しさというのも、時間や空間の調和の度合いを評価したメジャーのようなものなのではないだろうか。音楽の美しさは、そこに音と時間との係わりから生まれてくる調和の度合いが評価されているのであろうし、形態的な美しさは、空間上での調和の度合いが評価されている。そして、その調和の善し悪しに、各民族の抱いている価値観や、個人の経験の中から培われた個人的価値観などが基盤となって働きかけているのではないだろうか。

体操競技にしても、その他のスポーツにしても、全くやったことのない人でも、形を見ただけで、競技者の技量を推測することができる。そして、自然体で、美しいフォームをしている人からは、結果として、優れたものが生まれてきている。飛行機、車、船、といった乗り物にしても、航空工学、自動車工学といったような専門的な知識はなくても、見た感じから、それが安定したものであるのか、そうではないのかはある程度予測できる。自然との調和、自然の中に秘められた素直な様態が、私達の心の中で美しさという感覚を生み出す基盤にあるようだ。

茶色く染まった枯れ野よりも、新緑が芽生える頃の青々とした世界の方が、より美しく感じるであろう。新緑という新たな生命の躍動が、それを感じとる人間の生命と共鳴し、その共鳴が、美しさとして感じとられているのであろう。このように、美しさを感じる根源には、生命との係わりが秘められているように思える。同じ表情でも、疲れ切った人の表情よりも、生き生きとしている人から溢れてくる表情のほうがより美しく感じられるであろう。形態的にどんなに調和のとれたマネキンを作ったとしても、生命の宿る人間の表情の美しさにはかなわないであろう。私達が、無意識のうちに感じる美しさの中には、生命の生き生きさに対する共鳴が込められているように思える。そして、その生命の生き生きさを、発する方も、それを受け取る方も共に持っているときに、その両者の間で生命の共鳴が生まれ、そこに、美しさという感じが生まれてくるのではないだろうか。同じ花を見ても、美しく感じられるときと、ほとんど何も感じられないときとがある。それは、色彩的なものだけではなく、虫の音や、鳥の鳴き声などにしても、美しく感じられるときと、うるさいものとして感じられるときと、受け取る側のこころの有り様によって、変化しているように思える。

受け取る者の心が澄み、生き生きと生きているときには、生き生きとした生命を発しているものを、美しいと感じられるのであろう。これとは逆に、受け取る者のこころが濁り、生き生きさから離れてしまっている人には、美しいものも美しいとして感じられないのではないだろうか。美しさとは、見られるものと見るものとの生命の共鳴なのではないだろうか。光にしても、それぞれに個性を持っているが、その光が、葉っぱの緑を生みだし、空の青さを生みだし、花の様々な色彩を生み出しているのは、光と葉や花の生命とが共鳴しているから起きているのである。光だけがあったとしても、それと共鳴するものがなかったなら、この世には光というものが存在し得ないのと同じよに、美しさというのは、見る者と見られるものと、聴く者と聴かれるものとの間に生まれてくる生命の共鳴現象なのではないだろうか。

美しいという言葉と同じような意味で用いられている言葉に、きれいというのがある。ただ、きれいという言葉のもつ意味は、美しいという言葉のもつ意味よりも、表層的で、汚れが取り除かれていて、見た目に美しさをたたえている状態を表現している。そこには、美しさの意味するものが抱えているような、奥の深さ、人間のこころや生命そのものとの係わりといったものは溢れてきてはいないようだ。このように考えてくると、美しさの根底には、その美しさを生み出している根源的なものが存在していて、その根源的なものからのメッセージを抱きながら、価値的なもの、意識的なものと結び付いているのが美しさということではないだろうか。すなわち、美しさの根源、それを美と表現するならば、その美の対極として、美しさがあるのではないだろうか。ただ、その対極といっても、美しさと美とが全く相反するものとして対極にあるということではなく、美を生命の根源と係わるものであるとすると、その生命の根源が、人間の見える世界、意識できる世界に浮かび上がってきているものが美しさということである。すなわち、私達のこころの根源、それは無意識の世界の根源でもあるが、その根源にあるのが、生命であり、それが美しさの根源であり、美と表現するものである。これに対して、美しさは、その美から溢れるエネルギーのようなものを、意識の世界で捉えた状態なのではないだろうか。

美しさを河の流れにたとえて表現することができる。その河の水源、美しい水をわき上がらせているその水源が美である。小川が、次第に大きくなり、やがて大河となって流れていくが、その長い流れの中で、様々なその土地特有のものを内に抱きながら流れていく。木の葉が舞い、潅木が流れ、やがて、そこには魚が育つ。そこには、生命の源である水に宿る様々な生命体が生まれてくる。これらの様々なものを抱きながら、やがて大河は海に注ぐ。この大河の流れが美しさなのではないだろうか。すなわち、美しさの中には、美を根源としながらも、そこには、長い流れの中で蓄積してきた様々なものが含まれているのである。どの大河も共に同じ水源を内に抱えながら、ある大河にとっては、砂漠的要素を含んだ美しさがあり、ある大河には、森林的な要素を含んだ美しさがある。美しさとは、根源に生命の躍動を抱きながら、現在の個々人を形成しているこれまでの人類の進化のあゆみ、それは価値観となって感じられるものであるけれども、その歩みとの共鳴によって感じられるものなのであろう。

次回の会を平成11年5月13日(木)に開催することにした。

以 上

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