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第67回 「生きる意味」

開催日時
平成11年5月13日(木) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、土岐川、塚田、桐、水野、下山、高木、前田(園)、前田(絵)、中村、淺谷、松本、前原、望月

討議内容

今回は、新たに、三人の方が参加してくれました。淺谷さんは、工学院大学教授で、主に情報通信関係の研究をされています。三十数年の間空手をやってきており、現在全日本少林寺流空手道連盟関東連合会理事長をされています。松本さんは、土岐川さんと同じ(株)ランドに勤められています。趣味はジャズ音楽を聴いたりハイキングをしたりすることだそうです。前原さんは、高木さんと同じ日清製油(株)に勤められていて、転勤歴の多い経験を持ているとのこと、最近になって山登りを始めたとのことです。それぞれ個性豊かな三人の方が、この研究会に新たな風をもたらしてくれることを期待しています。

今回は生きる意味ということで議論した。生きること、生と死といったような事柄に関しては、すんなりと議論できるが、生きる意味という風に生きることに意味を問われると、なかなか議論できないというのが大方の意見であった。今生きていることが生きていることであり、生きていることは当たり前のことであり、そのことにこれまで意味付けなどしてきてはいないというのが実際のようだ。また、そんな意味付けなどしなくても、こうして日々生きているのであるから、それで良いのではないかといった意見もあった。そのため、今回の議論では、生きることの意味、そのものをはっきりとした言葉で表現できるところまでには至らなかった。しかし、核心にまでは至らなかったが、会の雰囲気に溢れていたものは、やはり生きることの意味を模索する無意識の営みであった。そこで、以下の内容は、この会の雰囲気の根底に流れていた言葉にならない議論を、言葉によって浮かび上がらせることで報告としたい。

自分がこの世に存在していることは、自分の意志で誕生したわけでもないから、そこに意味付けすることなどあり得ようか。確かに、自分が生まれてきたのは、自分の意志ではないし、その自分の意志ではなく存在していることに何らかの意味付けなどあろうはずもないと考えることは、ある面正しいように思える。しかし、はたしてそれだけで済ませられるものだろうか。私達は、毎日毎日生きているが、その中で年老いていくことは確かであり、いずれは死んでいってしまうことも確かである。その流れの中で、これで良いのだろうか、生きることとは一体なんだろうか、といった生きる道のようなものを心の奥の方で求めようとしていることを感じはしないだろうか。そのもやもやとしたものこそ、生きることの意味を求めていることになるのではないだろうか。

確かに、私達一人一人は、母の胎内から産声を上げ、誕生してきているが、その命は、その誕生を持って始まる命ではなく、永遠に続いてきている命であろう。その永遠に続く命を物質的に捉えるならば、精子と卵子に秘められた遺伝子であり、それを精神的に捉えるならば、私達の誕生以前の記憶を秘めた無意識の世界である。すなわち、今を生きる私達の心の中には、誕生を持って始まる意識の外に、誕生以前のものが無意識の世界に記憶されているのであり、その無意識の世界から、生きることの意味を問うかすかなささやきがあるのである。そして、生きることの意味は、誕生以前からある無意識の世界が、誕生以降に生まれた意識に対して、自己主張していることでもある。それは、人類誕生以前から在り続けている引力が、ニュートンによって発見され、意識化されたのと同じように、私達の無意識の世界に在り続けている命を意識化させることへのエネルギーではないだろうか。

生きることの意味など確かにないのかもしれない、でも、それでは済まされない何かを心の奥で感じてはいないだろうか。そのかすかな叫びを、古代人は、神として象徴化した。原始宗教としてのシャーマニズムも、日本の神道に見られるように、森羅万象の中に神を認めることも、それは、私達の無意識の世界に息づく生命の躍動を、意識化させる代わりに、シンボル化させることによって治めていたのである。祈ること、それがある意味では、生きることの直感的意味なのではないだろうか。それはあくまでも直感としてのものであり、意識が自ら無意識の世界に入っていったものではない。引力の発見がそうであるように、無意識だったものを意識化していくためには、その無意識の中に、なぜだろうという意識が介在して行かない限り、それは直感の世界に居続ける。まだ概念化されていない世界である。それは、カントが述べるように、概念のない直感であり、盲目なのである。意味を問うことは、概念化することであり、先に述べたように、それは、無意識を意識化させることである。そして、生きることの意味を問うことは、自分自身の無意識の世界に意識の明かりをともすことであり、内省することである。ソクラテスのいう「汝自身を知れ」というのは、まさに、この生きることの意味を問いていることでもある。

私達は、時として、ある概念を知り、それが体感として納得できたときに、腑に落ちたと表現する。この腑に落ちたという体感こそ、直感として概念を感じとったことである。この腑に落ちる現象は、学問の世界から、実社会の世界まで、私達は時として経験することがある。そして、この腑に落ちたという印象を、無意識からのささやき、それが生きることの意味を問いているのであるが、その無意識からのささやきを、意識の世界で納得するとき、すなわちそのことに対して腑に落ちた時、それは道を手に入れたのであり、悟りを得たことなのではないだろうか。生きるということの意味は、無意識の世界に在る自己を覚知することの中から生まれてくるように思えるのだが。

次回の会を平成11年7月15日(木)に開催することにした。

以 上

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