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第65回 「語る」

開催日時
平成11年1月28日(木) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
広野、土岐川、中瀬、桐、水野、吉田、下山、前田(絵)、大原、西村、望月

討議内容

今回は、新たに、二人の女性の方が参加してくれました。西村さんは、マーケティングに関する業務を行うインプレスという会社を経営されています。オウムの飼育を15年ほどなさっているとのことです。大原さんは、ベルシステム24に勤めていて、現在コミュニケーションに関する調査研究をなさっているとのことです。お二人とも活気溢れる方で、この研究会に新たな風をもたらしてくれるものと期待しています。

今回は、語るということに関して議論した。語るという言葉の響きの中には、自分の考えを表現するという意味合いと、自分の思いを相手に伝えるという意味合いとがありそうだ。共に基本には、自分の考えを表現する営みがあるが、相手がいなくても自分を表現するのが前者の言う意味である。絵を描いたり、哲学したり、日記を書いたり、等々、相手がいなくても、何等かの手段によって、自分自身を表現していくこと、それも語ることの中にはある。

これに対して、相手があって語るということには、自分の思いを相手に伝えるという意味合いが強くなってくる。この相手があって自分の思いを伝えるという中にも、その相手との係わりの中で、自分自身を表現し、その中から、今まで気付くことのなかった自分自身を発見することもある。いずれにしても、私達は、語るということによって、程度の差はあっても、その営みの中で、自分自身の内面に秘められた自分を発見しているのであろう。

新たな発想も、自らを語り、人との語り合いの中から生まれてくる。語るという営みの中には、すでにある知識や体験を表現するということの他に、それまでには全くなかった新たな考えを生み出したり、自分では気付くことのなかった自分に気付いたりするきっかけを与えているくれる力がある。すなわち、情報伝達としてのものと、創造性と係わるものと、二つの力が、語るということの中にはありそうだ。

そして、人と人との語り合いの中で、言葉の働きは極めて重要になってくる。ただ、私達が、直接会って、互いに語り合うことの中には、単に言葉で伝えられる意味的な情報だけではなく、その言葉を一つのメディアとた声色、語りの間、さらには、表情、態度といった体全体で伝えている何かが込められている。同じ意味的な情報にしても、語る人によって、その意味の奥に込められたもう一つの情報に大きな差が生まれてくる。その言葉の奥に込められた情報によって、受け手の心は動かされる。単に意味的、知識的なものとしての情報だけではなく、生命と係わる何かが揺り動かされるのである。

間にしても、それは、人間だけにあるリズムではなく、動物や昆虫の営みの中にも、また、私達の体の中で無意識に働いている様々な細胞の営みの中にも、あるリズムが秘められている。間というのは、生命という捉えどころのない、でも確かに存在しているものの一つの現れなのであろう。そして、私達は、相手との語らいの中で、無意識のうちに、その生命からのメッセージを伝え合っているのである。ただ、言葉で伝えられる意味的な情報にだけ価値がおかれ、関心が高まってくるに従って、私達は、大切な生命からのメッセージを切り落としていくことになる。

インターネットの普及は、情報をより早く、多角的に検索し、取得できるという利便性をもたらしてはいるが、その陰で、人との語り合いの中から、言葉では伝えることのできない、生命からのメッセージを切り落としてしまう危険性を秘めている。人間が、意味的な知識としての情報だけに価値をおき、それへの関心が高まれば高まるほど、私達は、私達の命を育んでいるその源から遠ざかることになってしまう。そして、その命から遠ざかれば遠ざかるほど、私達の作る社会は、生命のない、殺伐とした世界の中に陥ってしまうのではないだろうか。

全ての生物には、生存本能がある。それは、命を維持しようとする自然の働きである。その生命を維持しようとする営みが、全ての生物の動きとなって表現されている。その動きは、人間のような言葉ではないけれども、互いに何かを伝え合っているものであろう。それと同じように、人間の語るという営みにおいても、その基本には、生きていくための手段としての働きが込められているのであろう。ただ、人間の場合には、その生きるということが、動物的な意味で、あるいは生命体としての生きるという意味の他に、精神的な意味での係わりをもっている。その二つの意味があるから、先に述べたように、語るという中に、情報を伝えるということと、自分の考えを表現するということとが含まれているのではないだろうか。

「学生時代、良く語り合ったな!」という学友とのなつかしい会話の中でのよく語り合ったという響きの中には、単に情報をやりとりしたということではなく、人生を語り、悩みを語り合うという、生きるということと結び付いたなにかがある。それは、人間だけに与えられた語りである。そして、そこに人間だけに与えられた、生命体としての新たな語りの意味が込められているように思える。それは、自分自身の無意識の中に秘められている生命の源と深く係わった語りである。

原始時代、人間達は、その無意識の中にある生命の源との係わりとして、シャーマニズムに見られるような原始宗教を生み出した。そこには、無意識の世界を直接的に表現する営みがあった。言葉ではないけれど、多分何らかの音楽やリズムによって、参加する人達の間で、その無意識の世界を共有していたのであろう。そこには、生きる喜びがあった。ただ、その原始宗教は、言葉とは係わらず、成文化されたものとはならなかった。それはまだ、無意識の世界を、単に直感として感じていたに過ぎないのであろう。やがて、それらは、直感としての宗教から、知恵と係わった教典のある成文化された宗教となった。それは、無意識を意識化した営みの結果として生まれてきたものであろう。そして、宗教が語られるようになった。

生命の進化の流れの中で、私達人間は、語るということを通して、無意識の世界を意識化させる営みをしてきているのではないだろうか。語ることによって、今まで全く感ずること、気付くことのなかった世界にめぐり合ったり、新たな発想が生まれてきたりしていることは、全て無意識の意識化という営みなのではないだろうか。そして、一種本能的にも思える語るということを通して、人間は、一人ひとりの無意識の中にある生命の根源を意識化させようとしているのではないだろうか。そして、その生命の根源と係わって表現されたものの中には、時代を超えて、人の心を打つ何かが込められているように思える。

今、時代は、生命の根源と係わることとは逆の方向に動こうとしているのかもしれない。多くの人達が、生命と係わる語りから離れ、意味的な情報を伝える語りへと動いている。教育にしても、ビジネスにしても、友達との語りにしても、情報だけが一人歩きをし、体全体から溢れる大切な命からのメッセージを伝える機会が少なくなっているのではないだろうか。こういう時代であるからこそ、命の響き合う語りの場が、益々大切になってくるように思えるのだが。

次回の会を平成11年3月25日(木)に開催することにした。

以 上

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