- 2005-04-09 (土) 21:40
- 1998年レポート
- 開催日時
- 平成10年11月25日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウイメンズプラザ
- 参加者
- 広野、土岐川、桐、吉田、下山、前田(園)、前田 く絵)、中村、望月
討議内容
今回は、新たに、中村さんが参加してくれました。中村さんは、現在愛国学園東学の顧問をされていて、大学に人間文化学部があることから、この会に興味をもたれたとのこと。専門が国際理解や、異文化コミュニケーションということで、幅広い見地から、意見が出されることを期待しています。
今回は、常識というテーマで議論した。私達は、常識という言葉を普段何気なく使い、また何気なく理解しているが、いざ面と向かって常識について議論し始めると、なかなか掴みどころのないものであるというのが、正直なところである。ただ、私達が、普段慣れきってしまっている日常生活から離れたとき、私達の常識というものが見えてくる。
前田(園)さんは、しばしばインドに出かけているが、インドから帰ってくると、日本での常識というか、暗黙の価値観というものが重くのしかかってくるとのこと。インドでは、学歴とか、肩書きとか、身なりといったものに価値がおかれるのではなく、人間の心そのものに価値がおかれるのに対して、日本では、どうしても、学歴、肩書き、身なりといった外見的なことに価値がおかれてしまう。私達は、そういう価値観の中に、日本人としての常識を暗黙のうちに作り出しているのであろう。その常識が、子供達に受験勉強を強いる教育になり、他者との競争に勝つことが絶対であるような価値観を生み出しているのである。そして、子供達がその価値観から逸脱するような行為に走ると、常識に欠けるとか、非常識だとかいって非難の的とするのである。
この日本の常識とも思える価値観は、日本がずっと抱いていた常識ではなかろう。今から40年以上前の時代にあっては、むしろ大学に行くことの方が非常識であったのではないのだろうか。ただ、そのことは、人から非難されるような非常識とはならなかった。そこには、大学に行くことが、それほどメジャーではなかったとしても、誰もが尊敬の念を抱くような優れたものとしての評価があった。すなわち、その時代、大学に行くということも、常識の許す範囲にあったのである。それは、大学に行くというのが、集団の中での一つの価値を与えていたものであるからであろう。
とにかく、常識とは、ある集団の中で共有されている価値観、知識、習慣といったものと深く係わっている。先ほどのインドと日本での価値観の違いは、民族レベルでの常識の差異である。日本という一つの国の中にあっては、小は、家庭や隣近所との間の常識があり、大は、企業や社会としての常識がある。このそれぞれの集団も、一つの個としての働きがあり、ある家庭の価値観が、隣り近所の価値観と離れたものであるならば、隣近所の
人達は、その家庭を非常識な家庭として非難するかもしれない。また、企業にあっても、企業だけの常識があって、その常識が社会の常識や社会の規範から逸脱したものであるならば、社会からは非難の的となってくる。近年の大企業の様々な悪事は、数十年という時の流れの中で、自然に培われてきた企業の悪の芽が、いつしか企業内の常識となぅて膨れ上がり、社会的な問題にまで発展してきた例であろう。
いずれにしても、常識というのは、ある集団の中にあって、時間と共に蓄積された様々な情報が個と個を関係づけ、その集団を構成する人達の心に共有された価値観となって形作られているものなのであろう。この共有されているというところに常識の本質がある。価値観が共有されているのであれば、必ずしも空間を共にする必要はなかろう。現在のようにインターネットや携帯電話といった通信システムの発達した社会にあっては、ネットワークを介した者同士の間で次第に価値観が生まれてきていて、そこには、それなりの常識が生まれてきている。
また、情報を共有するという意味からすると、年齢差による情報への好みの違いが、年齢による常識の違いを生み出している。若者の常識と、大人の常識とが離れていってしまうのも、互いに共有する情報に格差が生まれてきていることも大きな−因であろう。これからの時代、様々な情報メディアが発達してくるにしたがって、情報によって結びつけられた常識集団が、数多く生まれてくるように思える。
言葉を介してのコミュニケーションができるのも、そこには暗黙の常識が秘められている。一つ一つの言葉の奥には、その言葉の意味する広い世界が心の中に展開している。その広い世界こそ、長い間の風土や習慣との係わりの中で言葉を共有する民族の中に培われてきた見えざる情報である。その見えざる情報こそ、一人ひとりの無意識の世界に蓄積されているものであり、その無意識の世界が、一人ひとりを結びつける暗黙の領解となり、
常識となっているのではないだろうか。
私達は、意識という世界において、一人ひとりを区別し、個と個とを区別しているが、無意識の世界で、そのバラバラとなった個同士を結びつけている。そして、その無意識の世界にも階層があって、意識に近いところで生まれてくる常識と、無意識の奥の奥の中から生まれてくる常識とがある。前者の常識は、世代によっても時代によっても異なるし、民族によっても大きく異なってくるのものである。これに対して、後者の常識は人類共通に持つ常識であり、普遍性の高い常識となっている。私達は、日常生活の中で、これら各階層の常識を常に抱いていて、どの階層の常識から逸脱しても、非常識という一言で表現しているのである。
社会の変化は、意識に近いところで固められた価値観が常識として満遍したときに起きてくる。その常識が、無意識の奥から呼びかける価値観を圧迫するところから起きてくる。利便性から、利潤の追求へ、さらには、お金だけを追い求める累代社会の常識の陰で、無意識の奥から発せられる生きるということへの価値が圧迫されるとき、社会は大きく変化する。現代社会、企業としての常識が見直され、官の常識が見直されている時代にあって、
個の常織も見直されてくるのかも知れない。
常識の良さは、言葉で説明しなくても、その組織を構成する者同士が暗黙の領解の中で、ある価値観を共有できるということである。言葉として表現してしまうと本質からはずれてしまうような価値観を、言葉なしで互いに理解し合えるところに常識の持つ力がある。日本人が、人間として最も重要な心の深層と係わる宗教に関しての常識を成文化して持っていないところに、日本人の哲学のなさという欠点とは反対に、それが、宗教戦争的なものを生み出さないものとなっているのではないだろうか。言葉では語らずとも、常識として根源に抱いているからこそ暗黙の領解によって守られているのかもしれない。
いずれにしても、常識とは、個と個とを結びつけるための見えざる言葉である。ただ、その常識には、悪としての常識と善としての常識とがたえず入り混ざっていることは確かであろう。善としての常識から悪への行為は非常識と非難されることはもちろんであるが、悪としての常識から、善を求める者を非常識として非難してしまうこともこれまでの歴史が物語っている。しかし、人類の歴史は、その善を求めようとする非常識者によって、新たに生み出されているということも事実である。
次回の会を平成11年1月28日(木)に開催することにした。
以 上