- 2008-02-04 (月) 20:47
- 2008年レポート
- 開催日時
- 平成20年1月25日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 直感
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、松本、下山、吉野、大滝、望月
討議内容
今回は、「直感」と題して議論した。直感と対比される言葉として、理性がある。理性が論理的なことを司る精神世界だとすると、直感は、非論理的な心の世界といえようか。直感という言葉の響きには、直感ともう一つの直観とがある。今回議論した直感は直感であるが、直観とも深い係わりがありそうだ。ただ、直感が、理性と対極にある感じる世界と深くかかわっているのに対して、直観は、理性と係わりながら感じる世界とも係わっている。すなわち、直観は、理性と係わりながら、感じる世界を見つめていく営みのように思える。五感から入る刺激に蓋をして、静かに自分自身の心の内を内観する中から生まれてくる心の世界、それが直観と係わっているのに対して、今回議論した直感は、五感とも係わりながら、意志的なものがないにもかかわらず、突如として、心の底から生まれてくるメッセージのようなものである。直観が、人間の内観しようとする意志と係わり、かつ理性と係わりながら、無意識の世界を見つめていく営みであるのに対して、直感は、意志も、理性も直接係わることなく、無意識の世界と交信しているものということになる。したがって、直観は理性と同様、人間にしかないが、直感的な世界は、動物ももっている世界ということになってくる。
では、一体直感とはなんなのであろうか。直感と係わる言葉に、ひらめきであるとか、第六感であるとかいった言葉がある。ひらめきは、普段から考えていたことなどが蓄積され、そうしたものと係わって、ある時突然新たな考えをもたらしてくれる現象であるが、そこには、体験や経験が深くかかわっている。これとは対照的に、六感は、体験とか経験といったことにそれほど深くかかわってはいないけれど、突然ある情報が内からもたらされてくるものである。ひらめきも、六感も、夢と係わりが深い。夢と係わるひらめきで、特に印象的なものとして、ベンゼン環の発見がある。長い間考えていて、答えを見いだすことのできなかったものが、何年も後に夢の中で解決してしまう。ベンゼン環の発見は、そのよい例である。こうしたことの事例を聞くにつけ、意識せる意志とは無関係に、無意識の世界で物事が考えられ創造されていることが分かる。
夢の中で起こったことが、現実のものとして起きてくることを体験した事例は多い。夢判断や、夢分析といわれるものは、夢の中で起きていることが、現実世界で起こりつつあること、現実世界で問題となっていることの要因を指し示していることが多い。夢の世界は、抑圧されていた心が浮き上がってくることもかかわっているといわれている。理性と直感という、人間の持つ二つの世界の中で、理性は無意識の世界、直感の世界を抑圧することが間々ある。それは、大地の中で芽生えようとしている芽、その芽の上に置かれた重い石にたとえることができる。
人間は、絶えず五感を通して入ってくる外からの情報と同時に、心の内から湧き起こってくる情報とに身をさらして生きている。人間がまだ、科学的なものを手にしていなかった時代、人間は、外からの情報と同じ程度、時としてそれ以上強烈に内から湧き起こってくる情報を意識していたのであろう。それが、段々と理性的な世界が台頭し、科学が発達してくるにしたがって、心の内から湧き起こってくる様々な情報が抑圧され、意識の世界に届きにくくなってきているのであろう。その内から湧き起こってくる情報こそ、直感のもたらすものであり、それは、論理的に考え出されたものとは違い、理屈ぬきで結論だけを指し示してくれる。そこには、理性で考えた結果よりも、全体をとらえた答えがある。
私たちの生命の営みは、自分自身の肉体的な環境はもちろんのこと、それを取り巻く自然環境と係わりながら、調和した営みの中で行われている。ところが、理性は、その全体の中から、部分だけを取り出して論理的に考えようとしている。だから、部分だけに注目すると、極めて正確に物事を規定し、判断することができるけれど、全体の中での部分の位置付けを見失ってしまうことがある。直感というのは、全体からものを見、判断している力であるように思える。
初めて会った人の性格を、その人の表情、語り癖、態度といった事柄から判断する力は、まさに直感である。その直感で感じたものを、理屈で語ろうとした途端、感じた本質的なものは消え去ってしまう。直感には、全体を一つとしてイメージさせる統合的な力が秘められている。それは、人間の意識が関与できない、無意識的な営みである。
言葉の誕生にしても、その根源には、直感の働きがありそうだ。言葉の響きに表れる心模様は、その心模様を表現するのにふさわしい響きが直感によってもたらされているのであろう。明るい状況では、心の底から明るさを表現しようと「あ」と大きく口を開く。これに対して、暗い状況では、心は閉ざされ「く」とこもった表現しか生まれてはこないであろう。そこに、言葉の響きと、直感との係わりが表現されているように思える。その直感に根を張った響きが、段々と理性とかかわりながら、一つの単語としての言葉が生み出されてきているのではないだろうか。それは、ひとつぶの種が、環境と係わりながら、段々と成長していく営みにも似ている。種の中に秘められた生命の力と、人間の内に秘められた直感の世界とは、共鳴する何かがあるようだ。
言葉の響きに見られるように、人間は、ある物事を感じた時に、その感じをその感じに合った言葉として表現する本質的なものが先天的に秘められているのであろう。それは、言葉と感じとの係わりだけではなく、美しいものを美しいと感じ、正しいものを正しいと感じるその感性も先天的に与えられているのであろう。真、善、美と表現される人間の価値判断も、先天的に与えられた感性的心であろう。そして、様々な局面において、それらを真、善、美と判断する根底には、直感が働いている。アルプスの光景も美しいけれど、花も美しい。対象は全く異なるのに、そこには美しさの共通した源泉がある。様々な対象をその美しさの源泉に結び付けてしまうのが直感の持つ力ということであろう。人間の行動にしても、悪いことは悪い、良いことは良いといった感覚を、誰に教わるともなく、人は抱いている。それを良心であるとか、罪意識であるとか言っているけれど、さまざまな行為をそうした心に結びつけ、判断させているのも直感の持つ一つの力であろう。
科学が台頭し、理性でものを考え、判断することを迫られている現代社会において、人々は、直感の世界を理性によって抑圧してきているように思える。善悪の判断も、美醜の判断も、そして、真偽の判断も、直感的なものによらず、理性で解決しようとしてきている。マニュアル化、ルール化が激しくなってきている時代、社会全体が、生命からのメッセージである直感に耳を傾けることが少なくなってきているように思える。そのことが、モラルの低下や不安といった社会環境を作り上げてきているのかもしれない。
次回の討議を平成20年3月28日(金)とした。
以 上
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コメント:2
- 土岐川 08-02-05 (火) 20:23
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土岐川です。
討議と関連があるような気がしてメモった思いつきをコメントします。
トイレで思わず眼を閉じた自分の行為から端を発して書いたものです。「眼を閉じる」
眠りにつくとき、音楽に聴き入るとき、深く想いを巡らせるとき、私たちは眼を閉じる。
眼を閉じる行為とはいったい何だろう。
何げない日常の中の行為に秘められた不思議について思いがひろがった。
反対に私たちが眼を開いて感じたり考えたりしていることは、視覚による外部情報に大きく左右されていることに気づく。
私たちの個人的な活動だけでなく社会においても、意識のアンテナは眼を開く方向に振っている。家屋の内部や屋外の舗道や店舗や看板、自動販売機など、生活環境のあらゆる場所に徹底して照明を配備しつづけて、都市から闇のほとんどが消えた。ちょっとした疑問についてもインターネットで即座に検索できるなど、闇は情報の世界でも私たちの感覚から遠のきつつある。かつての闇が膨大なエネルギーによって光に塗り換えられているのが現代である。私たちは光に満ちた文明の海を航海しているのだ。
それでも私たちは、毎日眼を閉じる。いったい眼を閉じて何をしているのだろう?
そこでは人の生命が文明社会とリンクできないで取り残されている何かを取り戻しているのではないかと想像できないだろうか?
私が幼かった戦後の復興期の頃には、まだ多くの闇があった。闇とは理屈抜きに怖いものであった。親に叱られて、押入れに閉じ込められたとき、眼を見開いても何の光も見えず、身体は得体のしれない何かからの圧迫によってしびれ始め、闇の中で皮膚感覚も失われていった記憶がある。子供心に、反省どころではない底知れない恐怖を感じた事を思い出す。
恐怖感はきっと姿が見えず正体が判らないという不気味さに対する感情なのだろう。
そうした恐怖から逃れる手っ取り早い方法は、闇を取り去ることであった。
人間の知力を結集した技術がそこに有効に働いた。人が文明社会を築くのは、便利さや権力を求めているからではなく、恐怖による脅迫感から逃れたいという欲求によるのではないだろうか?
しかし技術力の乏しい時代には、人は闇から逃れることはかなわなかった。毎日眼を閉じるのと同じように正体不明の闇を受け入れるしかなかった。その頃の人は、幼いころの私が感じた恐怖感と日々向き合っていたのだろうか。
恐怖感も毎日繰り返されると訓練され、進化したものに形を変えたのではないかと想像される。宗教と人との関係も、光に照らされた現代の社会とは異なる関係であっただろう。社会には、判らないことでも受け入れざるを得ないものがたくさんあっただろう。判らないことは努力すれば必ず判るはずだと信じてどこまでも追及する、といった現代の考え方とは異なるベースがそのころの社会にはあったと思える。
宗教に代わって社会を牽引してきた科学技術の歴史は、分析力を始めとする人の思考力を高めてきたが、ここで気になることがある。科学技術の発展の陰に隠れて見えにくくなっているが、判らないものは受け入れなくなっているという状況である。
受け入れないということは、無いこととして排除するということでもある。現在の人のほとんどが、病院で息をひきとる。生まれてきた人は必ず死を迎えるのに、死は世の中から見えにくくなっている。だから忌み嫌うものとして意識から排除される。
スポットライトに浮かび上がるものだけをあるもののすべてとして、世界を構成しようとすることには無理が生じるものである。見たくない要素だけでなく気付かない眼に見えない要素が全体から抜け落ちるからである。
一方でわからないものを明らかにしようとする行為は人間が生きる熱意を支えるものではあるが、頑張れば頑張るほど気忙しくなるという場面に多く遭遇するのはなぜだろう。
その先には、知ろうとすればするほど見えなくなる、どうしても越えることができない限界があるように感じる。
人間の神経や脳を分析し、生体反応に関するしくみの究明は進んでいるが、それらの研究から理解される生体の活動は、コンピュータのように外的刺激の反応装置として解釈される範囲にとどまる。
生命活動にはあえて外的刺激を絶つことによって成立するものが含まれるという事実がある。生命の内側の秘密には、頑張って解析するというアプローチからはたどり着けないのではないか。
ならばやり方を変えてみるのはどうだろう。闇を照らすのではなく、眼を閉じて闇を受け入れるという、もうひとつの心の構え方には理屈を超えた理解に至る糸口が託されているような気がする。
「無知の知を知れ」という先人ソクラテスの言葉にはそんな想いが重なるように思える。 - 望月 清文 08-02-11 (月) 17:29
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中国の古典「荘子」に、渾沌という物語があります。 北海と南海にそれぞれ帝が住んでいて、その中間に渾沌という帝が住んでいました。北海の帝と南海の帝は、いつもこの渾沌のところで出会い、渾沌のもてなしを受けていました。北海の帝と、南海の帝は、渾沌の恩に報いるために、何かしてあげようと考えました。普通の人間には七つの穴(目、耳、鼻、口)があるのに、渾沌にはありませんでした。そこで、二人は、渾沌に穴をあけてあげることにしました。一日一つずつ穴をあけていきましたが、七日たつと渾沌は死んでしまいました。 土岐川さんのコメントを読んでいて、渾沌の話がふと浮かんできました。