- 2005-04-09 (土) 23:05
- 2004年レポート
- 開催日時
- 平成16年3月29日(金) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、塚田、山崎、下山、松本、吉野、肥野、井桁、松尾、望月
討議内容
今回は新たに松尾さんが参加してくれました。松尾さんは、この4月末に、ニュージーランドに永住するため行くとのこと。お若いのにしっかりした考えをお持ちの方で、ニュージーランドで始まる新たな生活に夢膨らませていました。
今回は、「愛」と題して議論した。イラクへの自衛隊派遣。そこには、人類愛としての大義が見え隠れする。バリアーフリーなシステム、介護用ロボット、遺伝子治療、高度化した医療技術等など、益々発展するハイテク技術。それらの開発のバックボーンには、世のため、人のためとする大義がある。そして、それらの大義にはどこかしら人類愛という響きがまとわりついているように思える。愛という言葉がつけば、全てが善とみなされてしまうマジックがある。そして、人はそのマジックを無意識のうちに活用しながら、自身の行為を正当化しているようにも思える。個人的にも社会的にも愛という大義によって営まれている日々の営みが、ひょっとしたら人類を破滅の方向に導いているかもしれないのに、愛という言葉が曖昧なまま、ただ、善としての快い響きだけをかもしながら使われてしまっているところに、現代社会がかかえている問題の根本原因があるようにも思える。
自分の夢を子供に押し付け、親の価値観で子供を縛り付け、それが子供への愛と勘違いしていたり、人類愛と称して、それが政治的に、経済的に利用されていたりもする。一見どこにも悪を感じられないものも、突き詰めていくと、愛の衣で変装した悪魔であったりもする。宇宙開発にしても、人類の将来のために、DNAの究明にしても、遺伝病の治療のために、クローン技術もこれこれのために、全てが世のため、人のためとしての大義が語られながら、その裏には、エゴのひしめいた世界が見え隠れする。人類愛、兄弟愛、夫婦の愛、友人愛、恋人同士の愛など、愛には様々な表現があるが、はたして、愛とは一体なんだろうか。
心理学的には愛は、無償の愛としてのアガペー、価値あるものを希求する愛としてのエロス、一つのことに夢中になる愛としてのマニア、快楽追究の愛としてのルダス、実利的な愛としてプラグマ、友愛としてのストーゲイの六つに分類されているが、これらの愛の根底に、もっとも根源的でかつ純白な愛が存在しているように思える。すなわち、心理学的に分類されている愛にしても、我々が様々な大義名分に用いている愛も、その根源には、人間が無意識に抱いている愛の原型のようなものが存在しているように思える。その愛は、とにかく善としての愛であって、心理学によって分類されているような、エゴとかかわったものではない。その根源的な愛は、我々の無意識の奥深くにあって、それが意識と係わりあってくる時に、それは様々な人間の欲と絡み付いてくる。先ほど述べた心理学で分析されている六つの愛は、純然たる愛が、異なる自我の欲求と重なり合って生まれてきている愛ではなかろうか。
それでは一体愛の原型とは何であろうか。100年前までさかのぼらなくても、70年ほど前までは、日本の家族は、7人、8人の子供のある家庭が主であった。そして、親は、日々の生活を維持するための仕事に追われ、子供の面倒をきめ細かく見ることなどほとんどできなかった。しかし、そんな環境の中で、それぞれの子供達はたくましく育っていったように思う。それに対して、現在のような少子化の時代にあっては、一人あるいは二人の子供に対して、溺愛とも思える過保護、過干渉がおこなわれている。その結果、現在の子供達には、自分で自分の道を歩いていくたくましさが欠けてきてしまったように思える。必ずしもフリーターや自閉症の増大がその結果であるとはいえないが、あまりにも過保護であったことが、子供たちの自活の力を切り落としてきてしまった感がする。
ライオンは、子供がある程度育ってくると、岩から子供を落とすという。それは、ライオンの本能から生まれてくるものであろうが、子供の自活する力を育てるための営みである。昔から、「かわいい子には旅をさせろ」といわれているが、これも自活する力を身に付けさせることが、子供にとって大切なことを知らしめている。これらのことを考えてくると、愛というのが、必ずしも手取り足取りと全てのことをやってあげることではなく、個々のものが抱いている自律の芽をしっかりと育ててあげること、それがどうやら愛と深く係わっているように思える。
花が好きだといって、水ばかり与えていると、根は腐り花は枯れてしまう。花が美しく咲き続けるためには、その花の持っている生命力に見合った手入れが必要である。花を愛することが、単に水をやり続けることではなく、花の持っている特性を十分把握し、その特性に合った手入れこそ、本当の意味で花を愛していることになるのと同じように、子供への愛にしても、皆がそうするからうちでもということではなく、一人ひとりの子供の持った潜在能力に気付き、その能力を豊かに伸ばしてあげるような支援こそ、本当に子供を愛していることになるのではないだろうか。
このように考えてくると、本当の愛とは、人間に対してであれ、動物に対してであれ、あるいは植物に対してであれ、それぞれがもっている潜在能力を十分に発揮できるように導いてあげることであると言えよう。そのためには、それぞれの持つ潜在能力を把握する必要がある。そして、そのためには、特に人間に対する愛のためには、人間自身について、それは先ずは自分自身についての潜在能力について熟知しておくことが必要である。そして、その根源的なものは、単に人との競争に勝つといった人との比較によって生まれてくる能力ではなく、人類が共通に持っている知恵の芽をしっかりと伸ばすことである。
ところが、世間というのは、この根源的な知恵の芽を伸ばすことではなく、人との比較の上で成り立つ知識や技術といったものを伸ばすことに価値をおいてしまう。そのために、社会全体が、不平等な中での競争に巻き込まれてしまうことになる。本来の一人ひとりに平等に与えられた知恵の芽を伸ばすことなく生きていることをキェルケゴールは「死に至る病」と呼んだ。現在社会のかかえる病は、まさに一人ひとりが平等に持つ知恵の芽を伸ばすことに力を注ぐ純然たる愛ではなく、死に至る病を助長させる擬似的な愛によってもたらされているように思える。
一つの言葉によって、疲れ果てた心に生きる力が蘇ってくることがある。それを愛語というが、言葉にも愛の力が秘められている。愛とは、それぞれのもつ潜在能力、それは、生命力そのものであるが、その生命力を生き生きと育むための働きかけではなかろうか。
次回の討議を平成16年5月24日(月)とした。
以 上
- 新しい記事: 第97回 「意志」
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