- 2009-09-19 (土) 0:39
- 2009年レポート
- 開催日時
- 平成21年9月9日(水) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 目指すもの
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、塚田、下山、望月
討議内容
今回は、「目指すもの」と題して議論した。討議テーマには、主語が表現されていないので、一体何が目指すもの、それは、人間社会が目指すものなのか、人間が目指すもなのか、あるいは科学なのか、会社なのか、政治なのか曖昧だという意見が始めに上がった。ただ、そうした主語を特定するのではなく、一応すべてのものについて、目指すものを自由に意見してもらうことにした。
一体社会はどうなっていくのだろうか。その社会の中で、日常生活にきわめて密接にかかわってくるのが科学技術であろう。家庭の中のあらゆるものが科学技術とかかわり、医療にしても、遺伝子治療であるとか、万能細胞による臓器治療であるといったものが、ますます盛んになってくることは予想に難くない。20年前には想像もできなかったインターネットの普及は、これからも発展し続けていくであろうし、インターネットの仮想的な社会の中で生きていく人も多くなってくるであろう。コンピュータは、限りなく小さなものになり、万能な携帯端末が生まれてくるであろうし、一人ひとりの体の中にあらゆる個人情報が記録されたチップが埋め込まれる時代がやってくるかもしれない。宇宙開発はどうだろうか。エネルギーはどうなるのだろうか。車は、電車は、飛行機は、などなど、あらゆる分野にわたって、その変化を推測することはできる。でも、一体何に向かっていくのだろうか。そうした社会変化の予測の根底には、人間のあくことのない快適性、利便性、娯楽といったものへの欲求がある。新たな欲求が新たなものを生み出し、その新たなものの中からさらに新たな欲求が生まれてくる。そして、また新たなものを生み出していく。それは、終わりのない人間の欲求と知恵とのいたちごっこのように思える。
人類がアフリカ大陸で誕生し、それから数万年の間に、人類は、アフリカ大陸を離れ、ユーラシア大陸に、オーストラリア大陸に、そして、アメリカ大陸へと広がってきた。大航海時代、ヨーロッパ民族は、新大陸発見に向けて、大海に旅立っていった。そして、今、人類は、宇宙への大航海を着々と進めている。とにかく、人間は外へ外へと向かって動いてきた。それは、人間のなにがそうさせているのだろうか。動物や昆虫の移動は、主として獲物を求めることや異性を求めることにあるのだろうが、人間の移動には、そうしたものだけではない何かがある。それは、好奇心なのだろうか、それとも新たなテリトリーを求めてなのだろうか。ただ、動物や昆虫の移動が、獲物を求めたり、異性を求めたりという生命を維持することと直接かかわっているように、人間の外へ外へと向かう動きも、生命を維持することとかかわっているのではないだろうか。要するに、人間が追い求めているその動機付けの根底には、動物や昆虫の本能的営みとも共鳴する何かが働いているのではないだろうか。
歴史が物語るように、過去、多くの権力者が、最終的に求めたものは、不老不死の世界であった。エジプトに栄えた王国貴族の残したピラミッドやスフィンクスにしても、秦の始皇帝の残した兵馬俑にしても、そうしたものの表れであろう。動物や昆虫の求める生命維持のための獲物や異性とは異なるけれど、人間には、そうしたもの以外に、生命とかかわり、その生命を維持したい、永遠に生きたい、すなわち生命そのものをとらえたいという、見えざる欲求が根底に控えているのではないだろうか。その生命とかかわった欲求が、外へ外へと人間を向かわせる力になっているように思える。宇宙を探求したり、DNAや原子の世界を探求したりするその源は、生命の存在を求めようとする人間に与えられた本能的なものなのかもしれない。
人間社会の目指すものは、科学技術の発展と相まって、外へ外へと向かっていく。それが生命そのものをとらえようとする本能であるとすると、その生命は、人間の思考が外へ向かえば向かうほど、人間の手からは離れてしまう。というのは、生命そのものは、外の世界にあるのではなく、一人ひとりの心の内にあるからだ。人間社会が、外の世界で激しく変化する時代にあって、人間にとって大切なことは、そうした激しく動き回る外の世界に踊らされるのではなく、時として静かに自分自身の内面と向き合うことが必要になってくるのではないだろうか。
確かに、人間の欲求は、より快適で、より便利な世界を求め続けるであろう。しかし、そうした世界の中に人間が浸れば浸るほど、人間の心の底に控えている不易な欲求に答えられなくなって来る。その欲求不満が、精神的疾患を生み出したり、自殺に追いやったりする社会問題になってくることを危惧する。ただ、その一方で、社会が人間の本当の欲求に答えられない時代であればあるほど、不易な欲求を強く抱いたほんの一握りの人の中から、あふれる生命エネルギーがほとばしり、芸術や新たな思想を開花させることになってくるのかもしれない。ゲーテが「ファウスト」に込めたように、ゴーギャンがその大作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」に描いたように。
次回の討議を平成21年11月20日(金)とした。 以 上
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コメント:1
- 土岐川 09-09-20 (日) 2:38
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生命の所在について
土岐川です。
研究会報告の「人間社会の目指すものは、科学技術の発展と相まって、外へ外へと向かっていく。それが生命そのものをとらえようとする本能であるとすると、その生命は、人間の思考が外へ向かえば向かうほど、人間の手からは離れてしまう。というのは、生命そのものは、外の世界にあるのではなく、一人ひとりの心の内にあるからだ。」について、反論ではなく角度を換えたコメントととして述べます。
生命が一人ひとりの心の内にあるという設定は、今回のテーマを、「目指すもの」と題したことで、生命について一般に了解しあっていることをベースにして議論の進展と広がりを求める方法としてはあると思います。しかし、それを結論とすることについては、そうではない生命のあり方に対するイメージもあると思い、その部分を補足したいと思いました。
生命については、とてつもなく大きな広がるイメージを感じることがあります。言葉にするのは難しいのですが、個別の生命体はその氷山の一角のようなイメージです。一般的に意識は水面上に表出した氷山のようなものであって、水面下にある氷山についてはアプローチしにくい性質をもっていると思います。無意識というのはその意識が届きにくいところをいっているのでしょう。
意識というのは個別の生命体に託された生命の機能と思います。だから、意識と個別の生命体の存在は一体化されやすいのだと思うのです。しかしあえて意識と生命をつなげて考えるときには、生命のイメージは無意識も含めたものとつなげる方が自然に思えて、意識と生命は同格ではないことを意識した方がフェアな思考につながるように思えるのです。
人の意識が、外へ外へと向かって何かを目指しているととらえるイメージには無理がないと思います。それを生命の営みととらえるとすれば、そのときの生命は無意識を含んだイメージを背景に持つべきでしょう。その水面下の意識については個別の生命体の枠内に収まっているようなものとは限らないと思えるのです。社会を構成する人々が意識することなく共有しているものであり、場合によっては人間という枠内にすら収まらないもので、他の動物とも共有している可能性があり、さらに意識の常識にとらわれないとすれば、非生命体とも共有して宇宙に広がる海のように存在しているものがあるかもしれないというイメージです。
その存在についての証明は困難ですので科学的なステージには乗らないと思いますが、科学的な思考がフェアかというと、存在を証明できるものだけを対象とするという科学の思考法は、証明できないものの存在をないものとするということにおいてフェアとは言い難いという性質があり、それを科学の弱点と意識してもよいのではないかと思います。
そうした生命のイメージをベースに私たちが何かを目指すということの意味を考えると、今私たちが実感している意識とは、生命や意識のすべてを含む宇宙が進化し続けている現象の水面上の一角に触れているということのように思えるのです。
私たちが意識を働かせて思考の領域を開拓するには、拠り所が必要です。それを科学や常識にたよるのも一つの選択肢ですが、自らの自然な感覚にたよるというのも選択肢に含んでもよいと思うのです。そうしたやり方の例として、ゲーテやゴーギャンの話題を取り上げているのだと思います。それは何も偉大な作家や芸術家だけに託された特別のやり方ではなく、一人ひとりの意識と行為の働かせ方に託すという宇宙進化のあり方へとイメージを広げることができると思うのです。
そういう意味で、「時として静かに自分自身の内面と向き合うことが必要になってくるのではないだろうか」という研究会報告を締めているコメントに同意します。