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第14回 「時間と情報」

開催日時
平成4年4月23日(木) 14:00〜17:00
開催場所
サントリー(株)東京支社
参加者
古館、多田、佐藤、望月

討議内容

今回は、前回の議論でテーマになった時間と情報との係わりについて、引続き議論した。

先ず始めに、高岡様からの情報に係わるレポートに関して話し合った。高岡様は、今回出席できなかったのですが、紙面にて、情報に係わる高両様御自身の考え方を伝えていただきました。その内容の大略は、一つは、現代人の多くが情報に関して中毒症状を起こしているのではないかという指摘、二つ目は、情報を受け止めるのに、文脈ではなく、点で都合の良いように受け止めてしまう傾向があり、事実と推論とを混同し易い状況にあるという二点である。

一番目の問題で、何故そんなに情報を欲しがるのであろうかという基本的なことに関して、一つには、知っているということに暗黙の価値が置かれ、皆が知っていることを知らないと恥であるという価値観が生まれていることが上げられた。昔、テレビ番組が今ほど豊かでなかった頃、子供達の学校での話題は、特定な番組であり、その番組を見ていないと仲間外れにされた状況があったが、それと同じ様な状況を、現在人は無意識に感じているのであろう。そして、企業社会の中では、同じ知識を共有していることが同じ世界にはいるためのパスポートのようなもので、情報を得ることはそのパスポートを得ることになっているのではないか。(また、現在社会のように、暗黙の内に時間に追われている時代にあっては、特定な時間何もしていないことにどことなく不安を覚えるのではないだろうか。人を待つときに、何もしないでただ待っているときなどは、時間の経過が気になり、長い時間待たされると、時間を無駄に過ごしたことに対する腹立たしさがおきてくる。しかし、その間に、何か作業していたり、本などを読んで知識を得たりしていると心は意外と落ち着いているものである。人間には、常に何等かな動作をしていること、その一つの現れとして、知識的なことを得たいという願望が潜在的にあるように思える。また、この知識欲求の他に、人間には、時間経過の中で、何もしないでいるということに耐えきれなさがあるのではないだろうか。対話というのも、情報を得る一つの手段であるが、食事をしているときに、対話しながら食事をとるのと、一人何もせずに食事をとるのとでは、後者の方が心理的圧迫は、はるかに強いであろう。一人身の若者が、食堂で、雑誌を読みながら食事をしている姿は、情報を得ようとする欲求もさることながら、何もせずに食事をとることの目持ち無沙汰に対する耐えきれなさの現れであろう。)

高岡様の指摘された二つ目の、情報を受け止めるのに、文脈ではなく、点で都合の良いように受け止めてしまう傾向があり、事実と推論とを混同し易い状況にあるという問題は、受け取る側の問題と、現在社会が、情報を提供する例の情報操作によって、いかようにも情報の意味するものに変化を加えることが可能になっているという情報提供側の問題の二つの面がありそうだ。これに関しては、人類の歴史や、現代社会の実態などを把握する際、限られた情報で推測してしまうと、大きな誤りが生まれてしまうことになるという指摘もあった。

情報には、収集目的がはっきりした情報と、収集目的が曖昧な情報とがある。先に述べた情報中毒の多くは、目的が曖昧な情報であろう。これに対して、競馬の予測にみられるように、競争馬や騎手の履歴、天気予報などの当日のコンデションに係わる情報等は、勝者を予測しようという目的のはっきりした情報である。

古館様から「情報社会の進展による病理」と題して情報に係わる問題点など8項目が提起された。その中で、現代社会が向かいつつある虚の世界と実の世界の転換について話し合った。何が虚であり、何が実であるかは画一的に定義できないが、情報化の進展にともなって、雑誌、ビデオ、パソコンゲームなどの虚の世界の中で自分があたかも実に生きているという錯覚した生活に陥ってしまう。その結果として、何が悪くて何が良いことであるかが判断できなくなってしまい、倫理感の欠如となって現れくるように思える。昔の人達は、生活の知恵とでも言うか、この倫理感を正しい方向に向けておくために妖怪を生み出したのであろう。妖怪というものの存在が信じられなくなってきている現代社会においては、情報化による虚の世界での快楽願望と相まって、倫理感の欠如が大きな社会問題となってくるように思える。

先に、情報の求め方について、目的志向型の情報欲求があることについて述ベたが、我々の日常生活において、我々の行動は、目的のみを目指した効率化が益々進んでいるように思える。特にビジネス社会においては、「のぞみ」号の出現が物語るように、時間の使われ方が、目的志向型に益々傾いてきている。そして、我々は、その目的達成のための時間短縮として、便利さを追求してきた。しかし、その便利さの陰で、効率化が金科玉条のこととして扱われるにしたがって、私達は、何か重要なものを失ってきているような気がする。紀貫之の書いた土佐日記は、わが国最初のかな文日記であり、世界的にみても日記の歴史として最も初期の物であるとのことであるが、この日記が書かれたのは、貫之が、土佐国主の任期が終わって、京に戻るまでの旅の間であった。帰京という目的からすれば無駄に思える期間が、人類にとっては貴重なものを生み出す機会になっていることを考えると、人間にとって何が真の目的であるのかを真剣に考える必要があろう。近視眼的な目的に捕らわれるにしたがって、私達は、人間としての真の目的を失い、益々時間に支配された社会を作り、余裕のない忙しい生活の中で生きていくことになってしまう。

人間の知恵が生み出した妖怪にしても、人間の心に働きかけるものを生み出すためには、それだけ十分な時間が必要であろう。どれほど情報が豊富になり、便利になったとしても、知恵が生み出すものにかかる時間は、今も昔も変わらないのではないだろうか。本物は促成栽培では育たない。

次回も、今回に引続き、情報(妖怪に係わる情報も含め)と時間との係わりについて話し合うことにした。

次回の開催予定日を6月17日(水)14:00〜とした。

配布資料

  • 高岡様からの情報に係わるご意見
  • 情報社会の進展による病理

以上

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