- 2011-02-10 (木) 2:27
- 2011年レポート
- 開催日時
- 平成23年1月21日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 家族について
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、下山、大瀧、大瀧(ち)、望月
討議内容
今回は、「家族」と題して議論した。家族とは一体何なのか、一昔前までは、家族とは何かという問題は、当たり前のようで、あえてその存在を考えられることはほとんどなかった。しかし、昨今の社会状況を見てみると、離婚、幼児虐待、体外受精、夫婦別姓、親殺し子殺し、一人暮らし、ペットの存在などなど、家族と考えられていた世界の中で、様々な事件や、これまで考えられることのなかった事態が起きてきている。そうした状況を踏まえ、家族とは一体何なのか、改めて考えてみることにした。
家族とは、単純に考えると、夫婦がいて、子供がいて、親がいて、そうした係わりの中で、一緒の家に住むというのが一般的に抱かれている家族のイメージであろうか。親子であっても、離れ離れに生活している状態では、家族と呼ぶには少し抵抗があるであろうし、血のつながらない者であっても、一緒に生活している人を我が家の家族と表現することもある。したがって、家族というものの基本には、一緒に同じ家に住む者という暗黙の前提があるように思える。
ひとり身の生活者には家族はいないが、それでも、ペットを飼って、それを家族の一員と考えている人も多い。犬や猫にまるで子供のような愛情を注ぎ、そのことで心がいやされている人は多い。犬や猫も家族の一員なのだ。とすると、家族というのは、必ずしも人間だけに限られたものではないということであろう。将来、まるで人間のように語り、接してくるロボットが開発されたとしたら、それを家族として受け入れることも起きてくるであろう。
こう考えてくると、家族というのが、人間だけに限られたものではなく、ペットであってもロボットであっても、一緒に住むものと心を共有できるものであれば、家族の一員としての存在が生まれてくるということである。すなわち、家族の本質的な存在価値は、自分自身の心をオープンにでき、心をいやしてくれるところにあるということのようだ。
かって、日本人の生活スタイルは、一つの炬燵、一つのちゃぶ台に家族が集まり、めいめいがそれぞれ全く異なることをしていても、どこかしら心が落ち付く雰囲気があった。そこには、いてくれるだけで心が落ち着き、癒される家族の存在があった。しかし、近年は、電話にしても、テレビにしても、パーソナル化し、同じ家にいても、子供は子供の部屋に、親は親の部屋に閉じこもり、同じ一つの場所で、それぞれの存在を確かめあう場が失われつつある。
そうした生活スタイルの変化とともに、家族の存在価値が揺らいできている。家にいることにストレスを感じ、家を飛び出してしまうホームレスの人たち。会話もなく、一緒にいることが苦痛になる夫婦の熟年離婚。親が子を傷つけ、子が親に暴力を振るう。こうした現象は、家族の存在が、かってのような心をいやしてくれる存在ではなくなってきていることを物語っているのであろう。
人間以外の生物、特に動物にも家族の営みを垣間見ることができる。そこには、本能とでも言えるような親子の絆がある。親は子供を育て、子供が自立できると、親は離れていく。親の責務は、子が自立できるように子を育てること。人間の家族においても、同じようなことが言える。子供のわがままやいたずら、失敗、そうしたものは、家族の中では許される。社会では許されないことが、家族の中では許される。その家族の中で、自我を芽生えさせ、自立する心を育て、社会に巣立っていく。家族がこころを許しあえる存在だからこそ、そうした心の教育ができるのであろうが、その教育に関しても、段々と難しくなってきている。そこには、家族の本来持たなければならない、心の共有される場が、形成されていない現状がありそうだ。
こうした家族のありようは、社会の縮図のような思いもする。学級崩壊、職場崩壊といった、かっては家族のような存在で共に学び、共に働いた集団の場から、互いの心を結び付けていたものが、次第に希薄になってきているように思える。会社や組織への帰属意識の薄さは、転職や職場崩壊という形で現れてきているが、そうした現象は、人と人との係わりがまるでたこつぼ社会のように希薄になってきていることの現れではないだろうか。その人間関係の希薄さが、家庭の場においても少なからぬ影響を与えているように思える。
その要因は、一人ひとりが、自分の我欲を自由に伸ばすことのできる社会になってきてしまっているからなのかもしれない。好きな人とだけしか話をしない。好きなことだけしかやらない。何でもほしいものが簡単に手に入る。全てが便利になって、身近にいる人の存在の有り難さを考えることもなく、自分の好きなことだけに心を傾けることのできる社会。確かに便利で、快適な社会になってきてはいるけれど、その社会は、一人ひとりの我欲を飽くことなく伸ばすだけで、人間としての心を成長させる機会を奪ってきているのかもしれない。
離婚は家庭崩壊の代表的なものだが、その根底には、夫婦の互いを思いやる心の欠如があるように思える。相手を思いやる心、それは、人間が人間としての心を成長させていく中で育っていくものなのだが、そうした人間的な心を育てることの努力がなくなり、ただ、生理的な好き嫌いによって、簡単に物事が運ばれてしまう社会に陥ってきてしまっているのかもしれない。家族とは、心をオープンにし、自分を取り戻すための極めて重要な存在であることを改めて認識し、いてくれるだけで有り難さが感じられるような家族でありたいものだ。
次回の討議を平成23年3月25日(金)とした。 以 上
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