- 2005-04-08 (金) 0:55
- 1994年レポート
- 開催日時
- 平成6年1月31日(月) 14:00〜17:00
- 開催場所
- サントリー東京支社
- 参加者
- 古館、高岡、広野、徳永、西山、土岐川、鈴木、菅沼、佐藤、望月
討議内容
今回からは場をテーマに話し合った。場をテーマとして取り上げた理由としては、私(望月)が、これまでサービスに関する研究の過程で、人間の欲求する基本的な対象物として、<物>、<情報>、<場>という三つの要素があるということ、また、人間の欲求の方向牲が、<物>から<情報>へ、<情報>から<場>へと変化してしていくという仮定のうえで、21世紀は、<場>の時代ではないかという予感があったからです。これらの三つの要素と人間の意識との係わりを見てみると、<物>としては、機能が明確になっていて、主として、人間の意識の世界に根ざした欲求であることははっきりしている。次に<情報>としては、何等かなはっきりした意味を持った情報と、絵画や音楽といった感性との係わりの強い情報とがあり、意識の世界と無意識の世界との両方に係わりがある欲求であろう。次に<場>になると、その多くが、無意識の世界と係わってきているように思える。先の<物>から<情報>へ、<情報>から<場>へという変化は、人間の意識から無意識への歩みのように思える。
場を一言で定義することは難しいが、自分自身を中心にして考えるならば、自分自身と自然との係わりから生まれてくる場、人との係わりの中で生まれてくる場、そして、瞑想などのときに一番良く分かるのかもしれないが、自身の気付いていない無意識の世界との係わりから生まれてくる場の三つがありそうだ。しかし、これらは、別々に存在しているのではなく、それぞれがある重みを持ちながら相互に関係し合って心に影響を与えているように思える。
場をどの様に捉えるかは様々あろうが、一つの考え方として、狩猟型と、栽培型という見方からするならば、場は、生命を温存させながら、自身も生きていくという栽培型として捉えることが出来る。狩猟型にとっては、対象となる動物は、自分とは全く異なる別々の物として存在している。これに対しして、栽培型では、生命を保持させながら、自身もその中で生きていくというように、自身と食物とは、宇宙全体の中に組み込まれているものとして存在している。農耕民族であった日本人の心の中には、自然との係わりが、大きな場として存在しており、自然に場を重んじる文化を育んできたのであろう。禅を基本とする、茶道や庭園、行事のときの幕張やしめ縄飾りなどは、場との係わりが強く作用しているように思える。また、日本人は和を尊ぶ民族であるといわれているが、その基本には、自身と宇宙とが一つの場の中に組み込まれていることを体得してきたが故なのであろう。
人が作り出す場としては、職場、家庭、社会など様々あるが、講演活動を長い間されている高岡様の経験では、壇上に立つと、その場の雰囲気が体を通して伝わってきて、その雰囲気が、話者としての高岡様中の心に大きく影響してくるとのこと。雰囲気の良い場では、自身の心も知らず知らずのうちに高揚し、話す者も、聴く者も満足した講演になるのであろう。同じことが、演奏家や演技者と、観衆との係わりにもいえるのであろう。良い演奏や演技に、観衆は感動し、その感動が、演奏者や演技者に影響を及ぼし益々素晴らしい演技や演奏が出来る。このような場での演奏は、単に演奏者だけのものではなく、観衆自身も、その演奏を支える場の構成要因として深く係わっている。この場の効用を、演奏者も観衆も無意識のうちに感じていて、どんなに通信技術が発達しても、その場で生の演技や演奏を、観たり聴いたりすることに快感を覚えるのであろう。これなどは、演奏家の奏でる曲が媒体となって、演奏者と、観衆との心を結び、その心を高揚させているが、自然環境が、直接媒体となって、そこにいる人間の心を高揚させる場合も数多くある。人が旅に求めるものもその一つで、自然の中で感じる場が、旅するものの心を快い方向で大きく変化させることに、旅人は酔いしれるのであろう。また、恋人同志が、美しい星空の元、ロマンチックな気分にひたり、恋をささやき合ったりするのも、自然と人間とがおりなす場の効用であろう。
電話をかけていながら、一言も話をすることもなく、1時間も過ごすという電話仲間がいるそうだ。これなどは、電話という媒体を適して、同じ場を共有している安心感というか、共同意識が自然に内から醸成されるのであろう。この場の生成は、もちろん電話機という機能をそこで用いてはいるが、自身のイマジネーションとの係わりで、自ら生み出すものであり、旅人が自然との係わりから感じるものとは趣が異なる。これと同じ様なことは、先にコミュニケーションのときに話題となった、子供とお年寄りとが、手をつないでいるだけで、あるいは、同じ場所にいるだけで、子供は安心して落ち着くというのとどこかしら相通ずるものがありそうだ。
書道も、禅画もその極みは、白紙との関係付けにあるらしい。白紙は、単に描かれるもののためのみにあるのではなく、場を構成する要素として作用する。そして、ものともの、線と線との間(ま)を生み出す。間がよいと全体的によい絵やよい字になる。これと同じことは、話し方のリズムや、音楽のリズムにもみられる。適度の間(ま)があると、聞き取りやすく、好感の持てる話し方になるし、快い音楽になってくる。このように、場には、空間に係わる場と、時間に係わる場とがありそうだ。空間に係わる場の一つとして、旅人と自然とがおりなす場があり、時間と係わる場の一つとして、演奏家と観衆とが作り出す場がある。人間文化研究会に、遅れて参加すると、発言するまでに数十分かかってしまう。もちろん内容的なものもあろうが、それまでに作り出されている場を共有するまでに時間がかかるということであろう。これなども時間との係わりから生まれてくる場の一つであろう。
情報について討議したとき、見える情報と隠れた情報というのがあったが、プロセスの中から生まれてくる隠れた情報というのと、時間的に生み出されてくる場というのはどこかしら相通じるものがありそうである。時間的に生み出されてくる場とは、隠れた情報なのかもしれない。
場には、同じ空間を共有しているといった物理的な条件によって生まれてくるものと、物理的な条件以外の条件によって生まれてくるものがある。例えば、宴会などでしらけているというような時には、同じ空間を共有していても、全く異なる場を内に抱いているということであろうし、電話によって、互いの心に同じ場を生み出しているときには、全く違う空間にいるにも係わらず、一つの場が生まれている。人と人とのコミュニケーションは、同じ心の場を作り出すことであり、通信の発達によって、空間を越えた場が生みだされつつある。
相思相愛という言葉があるが、恋をして、物思いにふけっているような時には、二人だけの中に空間も時間も越えた場が生み出されているのかもしれない。そして、この場は、先に述べた自身の中から生み出される場に大きく係わっているように思える。テレパシーなども、時空を越えた場が内に構成されていて、この微妙な変化を内に感じることからきているのかもしれない。
この議論を通して、我々の感ずる世界には、我々が科学の眼で捉えることの出来る時空間だけではなく、時空間と係わらない何かが元々存在していて、それを場として感じ取っているようにも思える。場との係わりに於て、東洋思想と西洋思想、東洋医学と西洋医学、臓器移植と場、熱狂的なJリーグ観戦と場などについて次回も引続き場につて話し合うことにした。
次回の開催日を3月15日(火)とした。また、30回記念研究会を、4月12日(火)に行うことにした。30回記念研究会をどのような形でするかは目下検討中です。希望なりアイデアなりがありましたら望月まで一報ください。お願いします。