- 2015-07-27 (月) 20:09
- 2015年レポート
- 開催日時
- 平成27年7月24日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 「共感」について
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 岩崎、下山、大瀧、望月
討議内容
今回は共感について議論した。共感とは共に感じあうという意味であるが、その言葉に込められた人間の心の状態は一体どのようなものであろうか。共感の心が生まれるためには、何らかの刺激が必要であろう。美しい景色を見て共に歓喜の声をあげる時、それは共感そのものであるが、そこには美しく感じさせる景色が視覚を介して流れ込んでくる。美しいメロディーに酔いしれるのは、聴覚を介しての刺激である。おいしい料理に舌鼓を打ちながら共感しあうのは、味覚を通して入りこむ刺激があるからだ。このように、共感を生み出すためには、何等かの刺激が必要であることは確かだ。
ただ、時としてそうした五感からの直接的な刺激がない時でも、遠く離れた人と同じようなことを考え、同じような行動をとることがある。何かを研究していたり、何かを生み出す仕事に携わっている時などに、思いもよらない閃きが、空間の壁を越えて、ほとんど同時的に地球上の複数の人に起きることがある。こうした閃きは共感の中に入れられる心の状態なのであろうか。このことを自問してみるとき、その心の中での現象は、共感というよりも、もう少し物理的というか、情報的というか、感情的なこととは必ずしもかかわってこない、シンクロニシティ―と呼ばれる共時的な現象であろう。
やはり、共感というのは、閃きではなく、共に感じあう、情緒的、感性的な心の状態のように思える。喜び、感動、悲しみといった感情を共に感じあうとき、共感が生まれてくる。ただ、喜びや感動といった、正の心の状態は、まさに共感といった言葉にぴったりの心の状態であるが、悲しみという言葉で表現された負の心の状態では、共感の心とは別に相手に対して同情する心も生まれてくる。
TVのニュースなどで、不慮の事故を知り、その事故に遭遇した人に対して抱く心は、共感というよりも同情心であろう。それは、事故にあった人、あるいは事故に遭遇した人の家族以外、どうやっても同じ心の状態にはなりえないからだ。事故にあった人の心、その家族の心を想像することはできても、その人の心そのものと同じ心にはなれない。それは、エベレストの登頂に成功した人の心を想像することはできても、一緒に登って、登頂の瞬間を共有しない限り、共感という心は生まれてはこないのと同じことだ。
こうしたことを考えると、共感というのは、同じ時間に、同じ場を共有することで生まれてくる共通の感情ということになってくる。ただ、一人でTVドラマや、TV映画を見ていて感動したり、悲しくて涙を流したりすることがあるが、それはそのドラマの中の主人公と同じ心を共有している、すなわち共感しているということなのだろうが、そこでは、共感しているのは、見ているただ一人の心だけだ。とすると、必ずしも同じ時間、同じ場を共有することが共感に必要不可欠な条件でもないように思えてくる。というのは、そのドラマを演じている役者さんの心は、そのドラマを見ている人と同じ時間、同じ場にいるわけではないからだ。ただ、それでも、見ている人は、そのドラマの主人公と同じ時間に同じ場にいる感覚にはあるのだから、見る人の頭の中で作られた共感であることには間違いない。とすると、共感という心は、共感と感じている一人の人間の頭の中で生み出されたものということになってくる。このことは、相手が必ずしも人間の心を持っていないものであっても、その人の思い込みや錯覚によって共感を自ら感じ取ることができてしまうことを意味している。そして、このことは、対応や感情表現が人間と全く同じように作られたロボットに対して共感を持つ時代がやってくることを予感させる。
こうしたことから考えられることは、共感とは、他の人、それが実在して同じ時間に同じ場にいる人であろうと、情報によって与えられた人やロボット、あるいはペットであろうと、同じ感情を抱いていると感じている心の状態ということになる。そして、人が共感できるというのは、誰でも、それがロボットであろうと、ペットであろうと、自分と同じ心を抱いているという無意識的同意があるからであろう。
こうした共感できる心は、人間に共通な心の基盤の上に、幼児期に自然にはぐくまれる環境と係わった心があるからであり、幼児期にそうした心の成長が歪められてしまうと、共感することが必ずしも当りまえのこととしてできなくなってしまうように思える。だから、幼児期の虐待は、子供の心を歪ませ、共感する心を育むことをできにくくさせてしまうのかもしれない。そして、子供の頃に、共感と係わる情緒性、感性、といった心の世界をしっかりと育てておくことこそが、調和のとれた社会の形成にはきわめて大切なもののように思える。
こうした人間の抱く共感の心は、人間以外の生物にもあるのだろうか。確かに犬同士、猫同士のふるまいを見ていると、人間の共感する心と同じような心が働いているように思えてくる。犬なら犬、猫なら猫に共通した心の基盤があって、それを互いに感じあっているから、犬同士、猫同士の振る舞いが生まれてくるのだろう。何万匹とも思える魚の大群が、一斉に方向を変えたりする姿を見るとき、そこには、目には見えない共感にも似た心を生み出している何かが存在しているように思える。共感という言葉は人間の心の世界だけに使われるのかもしれないが、共感の心を生み出す源は、犬や猫や鳥や魚にも共通なものに由来しているように思える。
次回の討議を平成27年9月18日(金)とした。 以 上
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