- 2005-04-09 (土) 2:07
- 1998年レポート
- 開催日時
- 平成10年1月28日(水) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、土岐川、桐、山崎、吉田、下山、徳留、望月
議事内容
今回から新たなメンバーとして、徳富さんが参加されました。徳富さんは、広告代理店である(株)TOMOEに勤務しています。ファックスを使った新しいビジネスを模索しているとのこと。自分の考えや、会社の都合などによって、何度か仕事をかえるという経験をお持ちですが、その豊かな経験をこの研究会において大いに発揮されることを期待しています。
今回は「大人とは」ということをテーマに議論した。大人という言葉の意味するところには、子供と大人というふうに子供と対比して用いられる意味相と、小人と大人というふうに小人と対比して用いられる意味相がありそうだ。そして、私達が、日常用いている大人という言葉の意味相は、この両者を漠然としながらも共に含んだものとして概念化されているのではないだろうか。
子供と対比された大人の意味するところは、主として年齢的なもの、また経験豊かなものとしてのイメージがある。成人式を迎えて大人になったという感覚は、主として年齢的なものによって定義付けられる大人である。そして、その年齢的なものと深く係わるものとして、経験の豊かさがある。ただ、その経験というものの中にも、いくつか異なった感覚がありそうだ。
例えば、漁師の場合には、いつの時期にどの場所でどのような獲物がとれるとか、この天候では、海が荒れてくるので、漁にはむかないといった自然との係わりを身体で感じ、それが経験の豊かさとなって蓄積されてくる。この経験の豊かな人ほど、大人の感覚として尊敬されたりもするのであろう。従って、子供と対比される大人の意味相には、年齢と共に、社会経験が豊かに蓄積されてくるという暗黙の前提があるように思える。
この経験には、漁師の例のように、自然と係わる経験の他に、人間との係わりで生まれてくる経験がある。ただ、ここで、人間との係わりで生まれてくる経験には、自然との係わりで生まれてくる経験とは大きく異なる側面が見えてくる。自然との係わりで生まれてくる経験には、嘘がない。ところが人間との係わりで生まれてくる経験には、善と悪が潜んでいる。
人間との係わりで、よい意味での経験の豊かさは、共感する心の広さではないだろうか。悲しいこと、苦しいこと、嬉しいことなど、様々なことを経験することによって、同じ様な境遇に出くわしている人に対する思いやりの心が生まれてくる。慰める心、共に喜んであげる心、そして、いたわってあげる心など、これらの心は、相手を思いやる心から生まれてくるものであり、この心の豊かさも大人としての有り様を示しているであろう。ただ、この心が、必ずしも年齢と同期しているとはかぎらない。何歳になっても自分のことしか眼中になく、人を思いやる心の貧しい人もいれば、若者であっても、思いやる心の豊かな人もいる。
人間との係わりで経験がもたらすもう一つの側面に、人間社会の仕組みについて知ることがある。「赤信号皆で渡れば恐くない」の言葉のように、人間社会が、必ずしも正しいルールに則った清らかなことだけで成り立っているのではないということを知ることである。そして、そのことを知ることだけであるならばよいのであるが、多くの場合、そのことを知った上で、悪のことを当り前の感覚の中で実行してしまうというのが大人社会であるという錯覚がある。あたかも清らかな心を汚すことが大人であるかのように。そして、現実問題として、人間の組織社会においては、善をなして行くことよりも、悪をうまくこなして行くことの方に、組織の上に立つ者の人間像が描かれているように思える。
その一つの理由として、人間社会が、お金を第一とした価値観の中で営まれているということがあろう。儲けるためには手段を問わないという感覚が、特に恵まれた社会の中では起きてきているのではないだろうか。「小人閑居して不善をなす」ではないが、大手企業の相次ぐ不祥事は、多くの大人といわれる人達が、実は、創業者達が理念としていたであろう世のため人のためという基本的な価値観をどこかに置き忘れ、人と人との係わりだけで利益が上がるという虚業の社会の中にどっぷりと浸ってきてしまったことによろう。見せかけの大人が崩れてきている時代であるといえるであろう。
それでは、本当の大人とは一体どのようなものなのであろうか。もちろん本当とは何かという議論もあろうが、先に述べた大人の感覚の中で、小人と対比される大人とはどのような人なのであろうか。
大人らしい大人とは、自然児ではないかという。自我を超越した人であるという。暑くなると自然に衣服を脱ぎ、寒くなると自然に衣服を看るように、私達人間の持つ感覚は、きわめて自然である。それと同じように、私達の心の世界にも、自然な営みが秘められていて、その営みの響きを素直に聞ける耳をもつことが、本当の大人への第一歩であるのかも知れない。
子供達は、この自然の営みに素直に反応する。好奇な目、遊び、喜び、悲しみ、全てをそのままに表現し、行動している。ところが、俗にいう大人社会では、これらの営みに、大人社会の作り上げた不善な価値観が、無意識のうちに網をかける。自然に伸びようとしている芽の上に大きな石を置いて、その石の間から伸びてくる雑草を必死で育て上げようとしている。そして、一人一人が、大きな石の下に埋もれている本物の芽の存在を感じながらも、しぶしぶ雑草を育てることを余儀なくされているのではないだろうか。雑草として育ってしまった大人達が、またしても子供達を雑草として育てようとしているのである。大人らしい大人とは、この大きな石を払いのけ、自分自身の心の中に自然に息づいている芽をじっくりと育て上げることの出来た人ではないだろうか。
本当の大人と子供との間には、共に大きな石がないという共通したところがあるが、子供には、まだ本物の芽は芽生えていない。本物の芽が伸びるためには、そこに一度は大きな石が置かれなければならないという自然の摂理がある。その石こそ自我である。多くの人は、自我の確立を持って、大地の上に大きな石を置くことで大人と考え、その自我の大きな石の底に新たに芽生えようとしている芽の存在を感じてはいても、そのために大きな石を自ら取り除こうとはしないものだ。先に述べた自我を超越した人が大人ではないかという直感は、まさにここにあるように思える。
桐さんの目からみると、子供の絵とピカソが晩年に描いた子供のような絵との間には雲泥の違いがあるという。素人の目には共に同じ様な形態に見えても、経験を積んだ画家の目からみるならば、ピカソの絵には、子供には表現できえない心の遍歴が立体的に表現されているという。そこに大人と子供の違いがあるのではないだろうか。共に自然であるという共通した土壌の上で、大人は、自身の芽をしっかりと伸ばしているのである。大人とは、子供のような純粋さを持ちながら、自身の芽をしっかりと伸ばしている人ではないだろうか。
自身の芽を伸ばした人には、自由という言葉がぴったりだ。社会に迎合するのではなく、社会的な価値観を追い求めるのでもなく、ただ、自身の芽を素直に伸ばすという自然の動きがあるだけだ。禅の言葉に「随所に主」という言葉があるが、自身の芽を伸ばすことが出来た人は、どの様な状況に置かれたとしても、常に自分が主であるという力強いパワーがある。他人との比較や競争ではなく、自らの道をしっかりと踏みしめながら歩むことの出来る人なのであろう。そのような人を他人がみると、勝手気ままな人生である様に思えるのかも知れない。しかし、そこには、子供の我がままさとは全く異なる強い信念が見え隠れする。真の大人とは、子供のような素直さの中に、強い信念を確立できた人なのではないだろうか。そして、このような真の大人が、人間社会をリードしていくことが出来るようになる時、人間社会は動物的社会から、真の人間的な社会に変革するのではないだろうか。
次回の開催を平成10年3月27日(金)とした。なお、次回は60回を迎えますので、何かを企画したいと思っています。会場、テーマに関しては、後日連絡することにしますが、開催日に関しましては、3月27日を予定しておきますので、多くの方々の参加を希望します。
以 上
- 新しい記事: 第60回 「心の豊かさとは」
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