- 2005-04-09 (土) 2:08
- 1998年レポート
- 開催日時
- 平成10年3月27日(金) 14:00〜17:00
- 開催場所
- 早稲田大学国際会議場
- 参加者
- 広野、土岐川、塚田、鈴木、田中、竹内、山崎、橋本、水野、吉田、ラジカル鈴木、村上、内田、下山、福富、宮沢、市川、椙岡、土谷、高木、高田、矢吹、佐久間、佐藤、望月
議事内容
今回は人間文化研究会の60回開催を記念し、早稲田大学国際会議場を会場に、こころの豊かさについて議論した。
近年とみに、子供達のいじめや構内暴力などが、新聞記事やTVニュースになっているが、これら子供達のこころの歪は、大人も含めた人間社会全体が歪んできていることの現れではないだろうか。挨拶一つとっても、20年、30年前の時代と比較して、家族間での挨拶、近所の人達との挨拶、また職場に於ける挨拶などが、めっきり少なくなっているようだ。挨拶は、相手の存在を認め、相手との間にある壁を打ち破る働きがある。そして、挨拶を交わすことによって、そこには無意識の内に、互いが共有できるこころの世界が出来上がっているのである。その共有するこころの世界は、実は、自分の無意識の世界を開放し、生命力を新たに生み出しているのではないだろうか。挨拶が交わされることの少なくなっている現代社会は、一人ひとりのこころの中で、自我と無意識との間に厚い壁が作られていることの現れである。そして、この壁が厚くなればなるほど、自我意識だけが強烈になり、自分自身の中にある豊かな生命力を押さえつけてしまうのではないだろうか。子供達のこころに起きている歪は、無意識の世界を存分に開放させて上げることの出来ない環境に大きな原因があるように思われる。
科学技術の恩恵によって、物は豊かになり、便利な社会になってきた。しかし、その豊かさとは反対に、どうやらこの社会に住む人々のこころは、豊かさから大部離れてきてしまったのではないだろうか。こころの豊かさを定義することは難しいし、その必要もないのであろうが、こころの豊かさと、感情の豊かさとは、どこかしら相通じるものがありそうだ。そして、その感情の源を考えてみるならば、それらは、私達一人ひとりの意識の奥、無意識の世界と深く係わっているようだ。もちろん感情に理性が支配されてしまうことを肯定するわけではないが、喜び、楽しみ、感激といったこころの世界をより自由に開放することが、こころの豊かさと係わってくるように思える。そして、これらの感情豊かなこころは、こころに弾力性を生み、生きていることが実感できるこころを作っているように思える。現代社会の抱えるこころの問題は、これらの感情を自由に表現できる環境が次第に失われてきていることではないだろうか。
自然は、私達の五感を通して、私達のこころに様々な感情を呼び起こしている。感性が豊かであれば、それだけ、自然の醸し出す様々な刺激に対して、素直な感激を生み出す。そして、その感性の豊かさとこころの豊かさとは、密接な係わりを持っているようにに思える。感性豊かな子供達は、自然の発する様々な刺激に反応し、そこに感激を覚えたり、不思議さを感じたりしながら、自然と対峙する。そこには、時を意識しない時が流れている。 こころの豊かさと余裕とは、密接な係わりがありそうだ。
時間を気にせず、何もすることもなく、ぼんやりと一時を過ごしているとき、豊かなこころを感じるという。自我を忘れ、自我の底にある無意識の世界を開放したとき、人は、幸福感を覚えるようだ。自我を意識するとき、そこには、一分一秒の時が流れるが、自我を忘れ、無意識の世界を開放するとき、そこには時を意識することのない悠久な時が漂っていることを感じることが出来る。私達がこころ豊かに感じるその一つには、この悠久なる時の世界に身を置くことが出来た時ではないだろうか。
物の豊かさや利便性は、確かに私達の生活を豊かにしてきたが、その豊かさとは反対に、いつでもどこでも欲しいものが手にはいるという環境の中で、私達のこころは、いつしか、一分一秒を争う時間に支配されてしまったようだ。子供達にしても、塾や学校との係わりで、ゆったりとした自由な時間を過ごすことができにくくなっているし、働く大人達にしても、競争という世の中の動きによって、時の流れを益々意識するようになってきた。物の豊かさや利便性の向上は、私達の日常生活の中に流れる時を益々意識させるような環境を作り出してしまったのではないだろうか。
こころの豊かさと時との係わりの他に、こころの豊かさと信仰というものとの係わりがあるように思える。自然との係わりに於て、自然を崇めるそのこころの根源には、私達の生命を育む宇宙生命とでも表現できるような、その存在に対して、感謝のこころを抱く宗教心と共鳴するこころの働きがある。しかし、現代社会は、近代化と称して、日常生活の中から、信仰心を奪い取ってしまっているようだ。性の問題にしても、元々性には、神秘的なイメージが伴っていた。そこには、性というシンボルを通して、この宇宙の絶対的なものに帰依する無意識の営みがあった。しかし、近年の援助交際という行為は、性意識を開放したことによって、人間と性との係わりを、人間と神との係わりから、単なる快楽的なもの、単なるお金を得るための手段としてのものに引き下げてしまった。もちろん、このような行為をする若者達の比率は少ないのであろうが、そのような行為を平気に表現できる社会の価値観こそ、人間のこころの中から、神のような絶対のものに帰依するこころを奪い取ってしまっているように思える。感謝する気持ちの欠乏は、一人ひとりのこころの中から、この絶対者に対する尊崇のこころの欠如によろう。
こころの豊かさは、私達の命を育んでいるその根源的なものと深く係わっているのではないだろうか。先に述べたように、悠久なる時間との係わりに幸福感を覚えたり、挨拶することによって和やかな場を生み出すことも、全て、生命と係わるこころを表現したものである。家庭から神がなくなり、日常環境から自然が失われていくその動きは、私達のこころの奥にある生命からの呼掛けから遠のいていくことに等しい。そして、私達が、自分自身の命を育んでいるその根源との係わりが希薄になればなるほど、実は、私達の日常生活は、バーチャルな世界へと移行してしまうのである。
さて、ここで、こころの豊かさと幸福との係わりが問題になる。一見、私達の日常生活は、物の豊かさと相まって、幸福であると感じることが多くなっているように思う。余暇の時間に、様々な楽しみと接することが出来る機会が多くなってきている。スポーツ、ゲーム、旅行、飲食等々、楽しむ事柄は数多くある。しかし、それらの楽しみも、時が経ち、終わりに近づいてくるに従って、悲しみや寂しさへと変化してしまう。それらの楽しみは、刹那的な楽しみであり、どこかしら麻薬による快楽的行為と似たようなところがある。これらを持って、こころの豊かさとは、どうしても言えない何かを感じる。そこには、こころの豊かさとは反対に、こころの貧しさを刹那的な快楽によって忘れさせようとする無意識の働きが隠れてはいないだろうか。
私達は、物の豊かさや利便性に満ちあふれたバーチャルな世界の中で、自らの意志で、自らの力によって、自らの道を歩むというこころを育てることをおろそかにし、全て、他者に依存した中で日々過ごしているのではないだろうか。赤信号、みんなで渡れば恐くない的な生き方を、無意識のうちに日々行っているように思える。そして、こころの豊かさと自己の確立とは、相通じることではないだろうか。世の中は、物や金、さらには地位や名拳といった事柄に人の関心は動くが、それではなく、さらに一人ひとりのこころの奥にあるリアルな命との係わりを見つけ出すことが、こころの豊かさではないだろうか。
こころの豊かさには、それぞれの人のそれぞれの状況によって、様々なものが浮かび上がってきた。それは、埋立地に建てられた高層ビルのようだ。まだビルの高さが低いときには、ビルの中での様々な娯楽にこころの豊かさや、幸福感を感じるものだ。しかし、このビルの高さが次第に高くなるにしたがって、地盤の不安定なビルが揺れ動いていることを感じるようになってくる。それを感じた者にとって、のんびりとビルの中で娯楽にふけっていることがもはや幸福ではなくなってしまう。そこでは、どの様な快楽も、不安定な地盤に対する不安を解消してくれるものにはなり得ない。その揺れが大きくなるにしたがって、人は、真の幸福が、ビルの中にあるのではなく、地盤を強固なものにすることにしかないことに気付いてくる。こうして、人は、高層ビルを倒し、地盤を強固なものにしようと努力するのである。強固になった地盤の上で、人は、ビルが建っていなくても、その強固な地盤に足を置いていることに、こころ満たされるのではないだろうか。
こころの豊かさは、地盤がどの様なビルを建てる人にも共通なものとして存在しているように、全ての人のこころの中を流れる共通した悠久なる命と響き合うことであるのかも知れない。それは、共感であり、思いやりであり、共鳴である。その共感するこころが豊かに育まれるとき、こころ豊かな社会が築かれるのであろう。
以 上
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