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第88回 「自然」

開催日時
平成14年11月1日(金) 14:00〜17:00
開催場所
東京ウィメンズプラザ

参加者

広野、山崎、水野、下山、市川、徳留、加藤、板倉、式井、渡辺、望月

討議内容

今回新たに三名の方が参加してくれました。板倉さんは、ベルシステム24総合研究所に勤務されていて、主として音声に係わる研究をされています。心理学が専門で、学生時代は魅力について研究されていたとのこと。式井さんは、古河電気工業に勤務されていて、光通信関連機器の開発を手がけています。三重県出身、読書が趣味とのこと。渡辺さんは、ルーセントに勤務されていて、通信機器、特に交換機と交換機とを結びつける通信機器の開発に専心されているとのこと。共に30代から40代前半という、人生のうちでもっとも輝かしい時期に生きている方々が、新たな思想の風を吹かせてくれることを期待しています。

今回は、「自然」と題して議論した。自然には、山、川、海といった、いわゆる世間一般に自然といわれている人間以外のものと、人間と自然との係わり、人間行動といった人間と係わる中での自然とがある。私達は、自然物と人工物を区別しているが、その区別の基準は、自然発生的に生まれてきたものを自然物といい、人間が生み出したものを人工物としている。それでは、はたして人間が生み出したものは自然ではないのだろうか。もし、それが自然ではないとしたなら、人工物と自然との根源的な意味での違いは一体何なのだろうか。

例えば、私達は、品種改良された米や果物など、それほど違和感なく受け入れることができるが、DNA組換え食品に関しては、それらをすんなりと受け入れることのできない何かを感じる。それは単なる慣れによるものだろうか。品種改良された米や果物にしても、それが出回り始めた頃には、現代のDNA組換え食品と同じように、やはり受け入れる上で抵抗があったのだろうか。記憶は定かではないが、DNA組換え食品に対する抵抗のようなものは、品種改良されたものには感じてはいなかったように思える。

その違いを考えてみると、品種改良は、確かに人為的になされたものであるが、それは、自然界で日常茶飯に行われていることを、ただ、人間が望むものを得るために、その発生確率を高くさせているに過ぎない。これに対して、DNA組換えになってくると、人為的なものを品種改良以上に強く感じてしまう。確かに気の遠くなるような長時間を考えるならば、自然の営みの中でDNA自体も変異し、DNAレベルでの変化が自然の中で行なわれているのであろうが、どうも、その営みが、DNAレベルになってくると自然と人為というものに大きな断層があるように感じてしまう。
ただ、参加者の中では、それも慣れだという意見が多かった。輸血の問題にしても、輸血という技術が生まれた頃は、自然の営みでは起こり得ない他人の血液を自分の中に入れるということに大きな抵抗があったにちがいない。でも、それが科学的に異常ではないことが証明され、その技術が人間の命を救うものとして役立ってくるにしたがって、輸血も自然の営みの一つとなって、人間生活の中に受け入れられてきた。同じようなことが、技術の世界においても頻繁に起こり続けている。電気が初めて使われた頃、電線の下を通ると不吉なことがあるとして、電線の下を通り過ぎないようにしたり、電線の下を通るときには、頭の上に何か覆いをしたりして通り過ぎていったとのこと。しかし、今では、日本の空は電線であふれているし、電波が問題になった携帯電話も、電波との係わりもいつしか忘れ去られ、手足と同じように、当たり前なものとして使われてきている。全ては慣れとのかかわりであり、慣れないものに対する単なる抵抗だという。

私達が、人工物を何か不自然なものとして感じながらも、それを取り入れていく営みは、単に慣れだけの問題なのだろうか。DNA組換え食品も、いずれ時間と共に慣れが浸透し、品種改良の米や果物のように、私達の日常生活の中に当たり前のように浸透していくのだろうか。きっとそうなるにちがいないけれども、初めて接したものへの抵抗は、単に慣れていないことが生み出す未知なるものへの不安だけによるものなのだろうか。それとも、そこには、自然の営みを直感的に感じる人間の秘められた感覚が、単なる未知なるものへの不安といったものではなく、人工的なものからでは決して生み出すことのできない自然の内に秘められた何かを感じ取ったことの現れなのであろうか。

人間生活と月との係わりにしても、科学がまだそれほど発達していなかった時代、月は私達の日常生活の中で大きなかかわりをもっていた。太陰暦に代表されるように、月と人間生活とは切っても切れないものであった。月の営み、月とのかかわりに、自分の心の世界を投射してのことであろうか、月に対して何か神秘的なものを感じ、それが竹取物語のようなものを生み出させたり、十五夜の夜のように、思わず月に手を合わせるような営みを生み出していた。しかし、アポロが月に着陸し、月が砂と岩とに満ちた生命のない世界であることを目の当たりにした途端、月に対する神秘的な気持ちは、理性の支配を受けて心の奥深くに静められてしまった。月は単なる岩の固まり、無機物として扱われてしまった。しかし、私達が、月に手を合わせたり、竹取物語を生み出したりした心の源には、理性ではつかみきれない何かを強く感じていたからにちがいない。

先に議論した、DNA組換え食品に対する抵抗も、クローン人間に対する抵抗も、月に対して科学のメスが入らなかった時に感じていた何か神秘的なもの、その神秘的なものが人為的に変えられたり、破壊されたりすることへの直感的な抵抗ではないのだろうか。私達は、科学の台頭によって、あまりにも理性的なもの、論理的なものだけに意識がとらわれてきた。それは、科学的洞察を基本に生み出された科学技術が、私達の日常生活において、具体的に見える形で利便性をもたらしてきたことによろう。机上の空論的なものであった科学が、技術によってその有用性が認識され、それに伴って、科学至上主義的なものが社会に広まってきた。そして、私達の心の世界も、いつしか直感的なものが科学技術とかかわる論理的な心によってベールに包まれてきてしまった。形而上的な世界が、形而下の世界によって支配されてきてしまった。勿論、論理的な世界、形而下の世界、それがそれだけで成り立っているのではなく、心の大地としての形而上の世界を基盤として成り立っているのではあるが、科学に代表される論理的世界の台頭によって、私達の心の大地は、一人一人の意識から次第に遊離してきてしまったように思える。それが、自然環境破壊を生み、家庭崩壊や学級崩壊などの場の破壊を引き起こしてきているように思える。

自然とは、私達の心の源であり、森羅万象の中を厳然と貫いている心の大地と共にあることではなかろうか。人間も自然の中から生まれてきたものであり、そこには、生命の基盤としての心の大地が厳然として存在しているのであるが、私達は、利便性をあくことなく提供し続けている科学技術の前で、この肝心な心の大地の存在を忘れかけているのではないだろうか。確かに人間が生み出したものは全て人工物ではあるが、その人工物であっても、森羅万象を貫いている生命の基盤、心の大地に則って生み出されたものには、悠久な命が宿り、それは人工物ではあっても自然と融合した、あるいは自然のもつ悠久な命を内に秘めたものとして、長く生き続けるものとなるのではないだろうか。芸術と言われる様々な作品は、この心の大地の存在に気付いた人間が、心の大地を基盤に生み出したもののように思える。

理性の世界は、物事を分析し、それを寄せ集めて何かを新たに作り上げようとする。それが科学技術であり、私達はそれを人工物としてとらえる。しかし、生命の根源には、地球と月との係わりに見られるように、そこには全体を一つとする力が働いている。その全体を一つとする力こそ自然の持つ力であり、私達は、その全体で一つの世界を神秘的なものとして感じ取っているのではなかろうか。DNA組換え食品に対する生活者の抵抗は、この全体で一つとした中で蓄積されてきた自然の営みに対して、人間の浅はかな理性が分析的に生み出したもの、すなわち全体で一つという神秘的なものを無視して生み出されようとする生命体に対する直感的な抵抗ではないだろうか。先に述べた品種改良と、DNA組換えとの違いは、前者は、全体で一つとした生命の根源的なものを維持した状態での改良であるのに対して、後者は、全体で一つというDNAの全体性を壊し、そこに人為を加えている点である。この違いを人間の直感がとらえているのではないだろうか。全体で一つという感覚で生み出されたものは、たとえ人間が生み出したものでも自然と融合する。そこには自然の持つ生命との対話がある。その対話を通して全てのものは、終わりのない再生の営みを続けることができる。そして、それらを理屈ではなく直感的に感じさせている人間の直感も、全体を一つとしてとらえる能力であり、自然からのメッセージであるように思える。自然とは、人間も含めて、全体で一つという統合された世界における営みのように思えるのだが。

次回の打ち合わせを平成15年1月21日(火)とした。

以 上

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