- 2008-06-19 (木) 1:11
- 2008年レポート
- 開催日時
- 平成20年5月30日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 命
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、下山、吉野、大滝、大滝(ち)、望月
討議内容
今回は、「命」と題して議論した。命を大切に、命の重み、命を無駄にしないように、などなど、私たちは日常生活の中で命という言葉をよく耳にしたり、言ったりもしているけれど、改めて命について考えてみると、とらえられそうで、なかなかとらえられるものではないことが分かってくる。それは、私という概念とよく似ている。私、私と、私たちは、私を日常よく使っている。私を意味する言葉が、ほとんどの民族にあるということは、人間として生まれて、必然的に私というものを感じ取り、誰もが私とは何かを暗黙の内に理解していることを物語っている。でも、その私とは一体何かについて考えてみると、先の命と同じように、とらえられそうでいて、確固としたものをとらえることができないことが分かってくる。
要するに、命も、私も、多分こうした言葉は他にもいくつかあるのであろうが、人間が生まれてから自然に感じながら、それなりのものを命として、あるいは私として、とらえているということであろう。言葉ではっきりと定義することはできないけれど、その言葉の指し示す世界には、一言では語ることのできない広い世界が含まれている。
それは、モザイク模様のようなものだ。モザイクによって描かれたものが、たとえばひまわりだとすると、そのひまわりは、一体どこから生まれてきているのかを考えると、その根源として、モザイクの一つ一つが浮かび上がってくる。でも、その一つ一つのモザイクがひまわりそのものではない。ひまわりは、モザイクが集まって、全体で一つとなって現れてくる。そこには、部分と部分の係わりの中から全体で一つのものが生まれてきてはいるけれど、部分が全体ではないことは確かだ。
それと同じように、科学は、生命そのものをとらえようと、生物を分析してきた。そして、その中から細胞の存在を突き止め、さらにはDNAをとらえてきた。近年のiPS細胞に関しても、そうした細胞学やDNAを科学する分子生物学の発展から生まれてきたものである。でも、そこに、私たちの直感が感じ取る命そのものが存在しているだろうか。先のモザイク模様と一つ一つのモザイクとの係わりのように、命そのものとしてのモザイク模様は、一つ一つのモザイクの中には存在してはいない。わたしたちが感じる命とは、一人一人の人格を含めた生身の命であり、それは、モザイク模様そのものであろう。要するに、部分が集まって出来上がった統合的な世界に、私たちは命を見ているということだ。
髪の毛を抜いても、爪を切っても、それで私たちは、命を失ったとは考えない。臓器を移植したとしても、それで、違う人になったり、自分の命が失われたとは考えない。それは、私たちの直感として、命が、全体を統合している何かであることを暗黙の内に感じ取っているからではないだろうか。
確かに、一つ一つの細胞そのものにも、またDNAそのものにも、それらを全体として統合している命がある。でも、その命と、そうした細胞が60兆個も集まって出来上がっている一人の人間の命とは、何かが異なっているように思える。その命には、ただ60兆個の細胞が集まっているということだけではなく、その集まったことによって、一人の人間が出来上がり、それが、家族とかかわり、友人とかかわり、社会とかかわって一人の人間としての存在が生まれてくる。そうした係わり全てを含んで、私たちは命と直感しているのではないだろうか。
だから、言葉で命をとらえようとした途端に、肉体のことを考え、植物人間や、脳死の問題とだけで命を考えてしまうから、直感でとらえている命を、なかなか思うように言葉で表現できなくなってしまうのであろう。命は、肉体には限られていないということ、それは、一人の人ならその人を核としながら、その人と係わる人全てによってつくられているものであるということだ。
命は、見るものではなく、感じるものである。その命を感じ取っているから、言葉では説明できなくとも、私たちは、命のなんたるかを把握しているのであろう。ところが、今度は、その感じている命を、言葉で表現しよう、科学的に分析しようとした途端に、それは、見る世界に入っていってしまう。見る世界には命はないのだが、その見える世界で命をとらえようとするから、本当の命がとらえられなくなってしまうのだ。
科学が命の世界に手を伸ばそうとする時、陥ってしまう過ちは、命が見える世界でとらえられると思うことだ。命は、一人一人の心の中に存在するものであって、見える世界にはないものなのに、科学は、その命を外の世界、見える世界でとらえようとする。だから、科学がとらえる命は、命の糟粕ということになってくる。科学が愛をとらえることができないのと同じように、命も科学的にはとらえることはできないものなのだ。愛も、命も心の内に存在していて、見える世界には直接その姿を現さない。愛と命は心の内にあって深くかかわっている。だから、それらが、映画やTVドラマの主題となりえるのであろう。
命とは一体何か。その答えは、どうもどんなに議論してもえられそうもないけれど、科学が見える世界で命もどきをとらえようとすることには、国を挙げて支援し、高額な研究費が与えられているけれど、見えない世界にある本当の命の研究には、ほとんどお金が与えられていないのは一体どうしてなのだろうか。命が見える世界にあって、見える世界でそれがとらえられると考えている限り、それは、錬金術にも似た世界に人間を陥れる結果にもなりかねない。人間が、人間として幸せに生きていくためには、命を見える世界だけから分析するのではなく、感じる世界においてももっと研究していく必要があるのではないだろうか。
次回の討議を平成20年7月25日(金)とした。 以 上
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