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第123回 「歴史」

開催日時
平成20年9月16日(火) 14:00~17:00
討議テーマ
歴史
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
土岐川、大瀧、矢島、望月

討議内容

今回は、「歴史」と題して議論した。歴史というような、ある意味一見その意味がはっきりしているようなテーマを取り上げたのは、本当に歴史が、はっきりした意味を持っているのだろうか、そこには何か本質的に曖昧模糊とした何かが秘められているのではないかと単純に思ったからである。確かに中学、高校で学ぶ歴史は、いつ何が起きたのかという年表的なことばかりで、そこには、哲学的に議論する曖昧なものは何もないように思える。ただ、私達は、そうした年表的なものだけでそれが歴史だとは思っていない。歴史を歴史たらしめているのは、年表以外の何かが存在しているからであろう。
私達は、日本の歴史、世界の歴史という時には歴史という言葉を違和感なく取り入れることができるが、地球の歴史、猿の歴史、といった風な使い方はしない。そこには、歴史が持つ本質的なものが秘められていて、それを人間が直感的に感じ取っているからなのであろう。歴史には、変化が必要だが、地球も、多分猿の社会も変化しているのだが、そうした変化だけでは、歴史とは呼ばない何かがある。それは、人の作り上げた変化ということではないだろうか。人が介在することが歴史には必要らしい。ただ、それでは、徳川家の歴史、天皇家の歴史というかというと、そこには微妙に歴史という言葉がかもし出すものとは何か異なるものを感じさせるものがある。

徳川家の変化にしても、天皇家の変化にしても、徳川家だけのものではないし、天皇家だけのものでもない。そこには、平民から、武士、貴族にいたる様々な人間が係わりながら、時代時代の中で、徳川家を作り上げ、天皇家を作り上げてきたプロセスがある。そうした人と人との係わり合い、そこから生まれてくる社会の変化、そうしたものを全て包括して出来上がってきているものを私達は歴史としてとらえている。すなわち、歴史には、人と人との総合的な係わりが暗黙のうちにこめられているということになろう。
それは、石でできた建築物と石との係わりに譬えることができる。石をどんなに集めたところで、それだけでは石の山ができるだけで、建物はできてはこない。建物を作るためには、石を素材としながらも、その根底に人間の抱く建物のイメージがなければならない。そこには、石と石とを有機的に結びつける人間の知恵がある。歴史もその石と建築物との係わりのようなものではないだろうか。石をピンポイントでとらえた年表的な事実とし、建築物を歴史と見ると歴史の抱く意味合いが見えてくる。歴史には、年表的なデータ、それをデジタルデータと表現するなら、そうしたデジタルデータを素材としながらも、そこに、人間の知恵によって作り上げられる何かアナログ的なイメージが必要なのだろう。
年表的な史実は、それは事実であろう。でも、それだけでは歴史としての意味合いは生まれてはこない。その事実を生み出す人間社会の内面に歴史は秘められている。でも、その内面を後世の人が描き出そうとする時、それは、その時代、その時代に内在していた人間の内的世界とは大きくかけ離れたものになってきてしまう。
たとえば、赤穂浪士の討ち入りの物語りにしても、赤穂の人たちから見れば、正しいのは浅野内匠頭であり、悪者は吉良上野介になるであろうが、これが吉良側の人たちから見れば、悪いのは赤穂側ということで、どちらの立場で歴史を描き出すかによって、歴史は異なったものになってしまう。ところが、その時代に生きていた人たちにしてみれば、その両方の心が渦巻いていたのであり、それが事実であるが、そのことをそのまま描き出すことは不可能である。そうしたことを考えると、歴史というのは、年表的な史実に基づいて、後世の人間の想像性によって作り上げられたものであるということが分かってくる。
現代に生きる人たちが歴史に興味を抱き、史跡を訪れることへの喜びの根底には、歴史に描かれた人間社会の心模様を、今生きている自分の心と重ね合わせ、その時代にあたかも生きているかのような気分を味わうことのできる喜びがあるからではないだろうか。歴史上の人物の住んでいた家や、事件の起きた場所など、自分の身をそこに置くことで、時間を超越した世界の中に、えもいえぬ喜びを感じ取っているのであろう。そのことは、歴史の持つ一つの大切な要素として、時代は過ぎ去っても、その時代に生きていた人たちの心が、今を生きる自分の心と同じものであることを暗黙のうちに認めているからであろう。
こうしたことを考えてくると、歴史は、文化や文明の変化、事件といった年表的なものを素材としながらも、その根底に、人間の心の不易性、時間を超越した生命の悠久性のようなものがあることを無意識に感じ取っていることから生まれてくるものなのではないだろうか。ということは、歴史とは、単に史実や人間社会の心模様といったものを伝えるだけのものではなく、今を生きる一人ひとりの心の内に変わることのない悠久な命が宿っていることを無意識的に感じさせるものであるようだ。

次回の討議を平成20年11月28日(金)とした。       以 上

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