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第8回 「文化と企業活動」

開催日時
平成3年8月28日(水) 14:00〜17:00
開催場所
サントリー(株)東京支社
参加者
古館、多田、霧島、相田、佐藤、望月

討議内容

本研究会の名称ともなっている文化について、その本質的な事柄について考えた。文化については、文化とは生き方であるとか、文化とは伝承される様式であるとか、生活様式であるとか、様々な定義付けがされているが、その基本は、人間の心にあるようだ。人間が生きる上で支えとなっている信念のようなものが、形として表現されたものが文化そのものではないだろうか。何世代もの長い年月を経て具体的な形として表現されてきたものもあるし、一人一人の生きざまとして、その人の人生の中において、行動や生活スタイルという形で表現されているものもある。

企業が、メセナ活動やフィランソロフィという言葉で、文化支援をしようという動きが活発になってきているが、日本には、元々企業が、様々な形で社会に貢献してきている伝統がある。道頓掘は、安井道頓さんが開削した堀であるし、淀屋橋は、淀屋さんが作った橋である。これらは、戦後になって経済復興が第一の目的であった時期に消え、それらがまた新しい名前のもとで現れてきたのが昨今の企業の文化支援活動である。メセナやフィランソロフィの方が響きがよいというのがあろう。また、企業が文化活動を支援することに対する日本語がなかったのかも知れない。

企業文化戦略と、企業文化の戦略とは、意味が大きく異なる。前者は、企業が、文化支援に関わることによって、企業のイメージを高め、結果として営利に結びつかせようとする戦略である。これに対して、後者は、先に述べた文化のもつ意味を、企業の中に育てようとする動きである。すなわち、企業理念のようなもので、そこには、その企業の企業哲学が貫かれている。その例としては、ホンダ、京セラ、黒ネコヤマトなどの企業がそれにあたるであろう。

工業化社会の中での企業の価値観は効率、そして、そこで働く人達の価値観は滅私奉公であり勤勉さであったが、情報化社会にあっては、企業の価値観は、美感遊創であり、そこで働く人達の価値観は、活私奉公であり、感性を磨くことである。

ヤナセの人の話によると、日本人向けの車に対しては、ちょっとした傷や汚れもないように特に気を使うとのこと。傷があるので、値引きをするといっても傷のある車を求めようとはしないらしい。日本人のこの潔癖性は、神道の祓の精神からくるのか、あるいは、高温多湿という自然環境の中で、絶えず身をきれいにしておくことが必要とされていたところからくるのであろうか。これらの潔癖性が故なのか、例えば、新築住宅を選択する場合でも、人目につく内装や、部屋のデザインなどには神経を使うが、直接目には見えない、土台や防音などの状況についてはほとんど関心を示さない。見かけだけ良ければ良いという表面的な考え方が全ての事柄に浸透しているように思える。

情報だけが一人歩きをしてしまう情報化時代にあって、直接目でみることはできないけれども、体で感じる価値観をしっかり持っておくことが重要である。物の選択に当たっても、その物が、自分にとって物としての本当の価値を持っているのかどうか、それが、只見掛けだけのステイタスシンボルとしての価値だけに終わってはいないだろうか。経済的に恵まれ、お金さえあればなんでも手にはいる時代にあって、他人との比較ではなく、自分にとっての価値観をしっかり持って生きて行くことが大切になってきている。

ブランド物に多くの日本人が関心を持つのは、ステイタスシンボルとしての価値観からくるものではなく、日本の物には本物が少ないからなのではないか。

若者達の金銭感覚が、一昔前の若者の金銭感覚と変わってきている。学生の分際でエグゼクティブカードを持っていたり、グリーン車に乗ったり、また、若者が高価な宝石を求めたりしている。それはそれなりに若者達は自分なりの人生哲学を持って行動しているのであろうが、自分で一生懸命働いた結果としての金銭感覚であるのであるならば良いのだが、経済的にゆとりのある家庭の中で育ち、金銭の価値を現実問題として肌で感じることなく、乱費しているのであるならば、将来的には大きな問題が生まれてくるように思える。この金銭感覚は、日常生活の安全感覚ともどこか共通している点がある。まだ科学技術が発達していなかった時代、物が豊かでなかった時代、町や村の川や池、山や谷、これらはすべて自然のままの状態であり、危険性や安全性については、一人一人がめいめい自分の感覚の中に自然に身につけて育っていた。これに対して、今の若者は、日常生活の中で経験する環境が、すべて人為的に安全対策が行き届いているために、自分で自分の身を守るという安全性に欠けてきている。従って、安全性がたまたま欠如しているような環境に出くわしても、それを危険と判断することが出来なくなっていて、大きな事故につながってしまうように思える。この傾向は、安全性の問題だけでなく、情報化の発展と共に益々多義に渡ってきているように思える。コンピュータの中の女性に恋することがあたかも本当の人間に恋しているかのような錯覚に陥ってしまったり、湾岸戦争のニュース報道にも見られるように、テレビゲームでも見るかのような状況を作りだしている。実体の伴わない知識だけが一人歩きをしてしまい、心理的な苦痛を受けることなくあたかも自分が経験したかのような錯覚を作り出してしまっている。情報化は、体験と知識とが一体化することで新しい感性を育んできた人間の自然なメカニズムを破壊する方向に働いているようにも思える。情報と、人間の体験的知恵とをどの様にしてバランスよく育て上げるかが今後の大きな課題となろう。

最後に、いままでこの研究会で議論された事柄についてまとめた資料(不易と流行について)を基に、短時間ではあったが、要点だけをまとめて述べた。これらの中で、科学技術の進歩が、我々の日常生活においてどの様な影響をもたらし、その結果として、我々が得たもの失ったものが一体なんであるのかというテーマは、デカルトの物心二元論に端を発する近代哲学が、果して人間にとって本当の幸せをもたらしたのかどうかを考える上でも重要なテーマとなりそうであることを指摘した。

次回の打ち合せは、9月25日(水)、14:00よりサントリー東京支社にて開催の予定。なお、多田さんが幸福論に関する資料を準備されているようなので、この研究会で何度か話題になっている幸福論を中心に次回は議論しようと思います。

配布資料

  • 西洋バラダイムと東洋バラダイム
  • 不易と流行について

以上

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