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第134回 「善」

開催日時
平成22年7月30(金) 14:00~17:00
討議テーマ
開催場所
東京ウィメンズプラザ
参加者
土岐川、下山、大瀧、望月

討議内容

今回は、「善」と題して議論した。善とは一体何かを議論する前に、私たちの日常生活の変化について考えてみることにした。というのは、人間の善としての心が基盤となって作り上げてきたであろう利便性や快適性にあふれた生活の中で、私たちに今のしかかってきているのが、将来への不安という、技術でも解決できそうもない問題であるからである。私たちの日常生活は、通信、運輸、電気、ガス、水道という、いわゆるインフラといわれるものから、家事、娯楽、医療、教育といった分野に至るまで高度な科学技術によって支えられ、生活そのものは快適で便利になった。しかし、その一方で、将来への不安や人間関係の希薄さなど、新たな問題が浮かび上がってきている。善を前提にして歩んできたはずの企業や国家の取り組みが、何か間違っていたのだろうか。それとも、利便性や快適性と、将来への不安感や人間関係の希薄さなどは、まったく関係のないことなのだろうか。

 現代社会は、確かに貧しい人と富める人との格差が激しくなってきているが、富める人といえども、社会の将来に対して、何らかの不安を抱えているのが現状であろう。数千万円もの貯金があるのに、将来への不安を抱えて、それを使わずにいる多くの高齢者たち、何億という収入があるのに、将来の生活が不安を理由に脱税する人。そこには、たとえ富があっても、何か不安を抱かざるを得ない何かがあるようだ。

日本人の平均年収は、20年前とあまり大きく違っていないらしい。それにもかかわらず、20年前の人たちと現代人とを比べてみる時、20年前の人たちは、皆中流階級としての豊かさを抱えていたのに対して、現代人は、以前のような中流階級という意識を抱くことはほとんどないのではないだろうか。そこには、TV、車、携帯電話、パソコン、ゲーム機などなど、高度な科学技術で支えられた便利で快適な生活がある一方で、それだけ高額な生活費がかかる社会変化があるからであろう。

こうした生活費の高騰は、医療の世界においても際立ってきている。確かに、高度の科学技術によって、昔なら不治の病であったものが、今では完治されるようになってきているし、昔なら早期発見ができなかった病気にしても、高度な医療技術によって、早期発見が可能になり、病気が重症化する前に治療することも可能になってきた。しかし、その一方で、そうした医療にかかる費用は昔よりはるかに高額になってきているし、この傾向は、科学技術の発展とともに益々強くなっていくことであろう。

現在精力的に研究がなされているiPS細胞に関しても、将来的には、臓器移植や、難病治療、さらには、心筋梗塞治療などへの応用が期待されていて、そうした医療技術が発展していくことは間違いなかろう。そして、やはり、そこでも、そうした医療を受けるために、高額な医療費が要求されることも予想に難くない。確かにこうした高度な医療技術は、様々な病気の治療に新たな光を投げかけてくれるが、その一方で、そうした医療を受けるための経済的な不安もより強くなっていくのではないだろうか。また、そうした高度な医療技術のお陰で、平均寿命は延び、高齢化社会が加速されてくることも将来への不安の要因になってもいる。

こうした科学技術は、医療はもちろんのこと、通信、運輸、教育、娯楽など様々な日常生活において重要な役割を果たす一方で、それを使う人に対して高額な生活費を要求することにものなってくる。また、そうした科学技術の登場は、高額の生活費を要求するだけではなく、人と人とのかかわりにも大きな影響を与えることになってきた。インターネット、携帯電話といった通信技術の高度化は、仕事の世界はもちろんのこと、日常生活にも大きく影響を与えてきていて、そうしたものが知らず知らずのうちに一人ひとりの人間をまるでタコツボの中に住まわせるような社会を築き上げてきているように思える。通信を使ったコミュニケーションが豊かになる一方で、人と人とが直接会って語り合う機会が少なくなってきている。そこでは、利便性、快適性を追求するあまり、人の心を置き忘れた社会が出来上がってきてしまったように思える。幼児虐待、親子間での殺し合い、無差別殺人、さらには、引きこもりや自殺者の増加といった社会が抱える問題の底には、人間社会が利便性、快適性を追求するあまり置き忘れてきてしまった何かがあるようだ。

さて、善とは一体なにか。科学技術は善、快適性は善、利便性は善、延命は善、高齢化社会は善、などなど、そうした善を大義名分として推し進めてきた人間社会の発展は、はたして本当の意味での善に基づいていたのであろうか。こうしたことを考えてくると、人間は、目先の快楽的な欲求を充足させてくれるものを善として、その善をたよりに人間社会を作り上げてきたように思う。それは疑似的な善であって、本当の善は、そうしたものを否定する心の中にあるのではないだろうか。もちろん快適性や利便性、あるいは高度な医療技術の発展が悪いというのではない。ただ、そうしたものをたよることで、人間一人ひとりが自分自身の心の奥深くを見つめてみることから次第に離れてきてしまったのではないだろうか。善としての心は、その奥深いところから、変わることのないメッセージを送り続けているにもかかわらず、人は、外界からの刺激に心を奪われ、そうしたメッセージに聞く耳をもたなくなってしまったように思える。善とは、時を超えてあり続けている心の底からのメッセージに耳を傾け、そのメッセージに従って行動していくことではなかろうか。

次回の討議を平成22年9月24日(金)とした。       以 上

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