- 2011-06-13 (月) 23:33
- 2011年レポート
- 開催日時
- 平成23年5月27(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 生命ついて
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 土岐川、下山、松本、大瀧、平賀、望月
討議内容
今回、新たに平賀さんがメンバーとして参加してくれました。平賀さんは、大手電機メーカーを退職された後、現在二つの大学で新たに勉学に励んでいらっしゃると同時に、音楽鑑賞や、宗教音楽の収集など多様な趣味を持っていらっしゃいます。豊かな人生経験をもとに、多様な視点から意見を述べていただけることを期待しています。
今回は、「生命」と題して議論した。生命とは何か、科学的な定義に従うと、生命体とは、自己増殖するもの、代謝をするものといった内容が浮かび上がってくる。ただ、科学がとらえたそうしたものは、生命の営みの結果として表面化してくるものであって、それが生命そのものではないことも確かである。それは、城の周りをぐるぐる回りながら、城とは、外堀があり、城壁に囲まれ、天守閣があるものと、城の中に一歩も踏み入れることなく、外から観察しているようなものだ。
たとえば、先ほどの自己増殖の問題にしても、それを細胞というものに焦点を当ててみてみると、確かに同じものが細胞分裂によって自己増殖していく様子が見られるが、それを人間個人に置き換えてみると、人間が生み出すものは、確かに人間という同じものではあるけれども、それは、もはや自己ではない。すなわち、自己増殖という時の自己は、客観的にとらえた一個体の意味であって、それが人間のように、自分を意識するものには当てはまらないということだ。人間自身の誕生も、生命の営みであることは間違いないが、それを主体の側から見てみると、決して自己増殖とは言えないものになってくる。すなわち、科学的にとらえた生命の姿は、あくまでも客観的にとらえた生命の営みであり、生命そのものではないということだ。
では、生命とは一体何なのだろうか。ある人の生命と肉体との係わりのイメージは、局と楽器との係わりのようなものだという。楽器は時間とともに劣化し、壊れていっても、曲はあり続けていて、どんな楽器でも、曲を再現することができる。生命とは、曲のようなものだと。それはあり続けているもの、この宇宙に遍満していて、全てのものの基盤となっているものだという。
生命と係わった言葉として、いのち、魂、というのがある。生命といのちとは何がどう異なっているのであろうか。イメージ的には、生命が無機的な存在だとすると、いのちは有機的なもの。生命は、全てのものの基盤にあってあり続けている何かであるのに対して、いのちは、生物と係わり、生まれ、消えていくものというイメージが浮かび上がってくる。すなわち、森羅万象の根源には、生命があたかも大地のように存在しているのだが、その大地の上に、生物を生物たらしめているものがいのちということではないだろうか。
蜂の生態を観察したメーテルリンクによると、一匹一匹の蜜蜂は、巣の精神としてしか表現できない力によって、自らのいのちを顧みることもなく、女王蜂を守ろうとする。それは、人間一人ひとりが自分自身のいのちを守ろうとするのにも似た行為である。すなわち、蜜蜂たちにしてみれば、個々のいのちというものよりも、もっと大切な何かがあって、それを守るために必死に生きているということだ。彼らにしてみれば、いのちとは、その守るべきものということになるのかもしれない。
こうしてみてくると、生命というのは、全てのものの根底にあって、森羅万象を生み出す源になっているのに対して、いのちというのは、その生命の基盤の上に、さらに生物だけに与えられた何かのような思いがしてくる。それは、生物種を形作っているなにかなのかもしれない。というのは、蜜蜂たちにしてみれば、守らなければいけないのは、個々体の存続ではなく、種の存続だからである。ただ、人間が、そうした蜜蜂を観察する時、人間のとらえるいのちは、個々体を生かしているものということになる。そして、その個々体を生かしているものが、人間は個々体の中に存在しているととらえてしまうのだが、蜜蜂たちの直感では、それが個々体の中にあるのではなく、種の個を超越したものの中に存在していると感じ取っているのであろう。
生命が森羅万象の根底に秘められたものであり、いのちが、生物の根底に秘められたものであるのに対して、魂というのは、人間だけに与えられた何かであろう。息子を自殺で亡くした柳田邦夫が、その著作「犠牲」の中で語っている第2人称の死。それは、自殺で植物人間状態になってしまった息子とのかかわりに関して、確かに科学的に見れば、そこにいるのは、もはや人間の機能を失ってしまった植物的人間かもしれないが、家族との間には、そう割り切れない何かがそこには存在すると。それは、息子の魂は、生き続けているという感覚、思いであろう。肉親にしてみれば、たとえ見える形でのコミュニケーションが取れなくても、そこには、まだ生きた子供がいるし、生きた親がいる。それは、個々人の中に蓄積された家族との営みの記憶、思い出、愛情、といった諸々のものが加味され、生きている存在としてそこにある。それは、人生を共にした人間同士の中で芽生え、記憶されてくる何かであり、そうしたものが魂、霊魂といわれるものなのかもしれない。
いずれにしても、生命とは、森羅万象の内を貫き、いのち、魂といったものを生み出している源であり、それはあり続けているものなのではないだろうか。
次回の討議を平成23年7月29日(金)とした。 以 上
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