ホーム > 1994年レポート > 第31回 「21世紀の遊び」

第31回 「21世紀の遊び」

開催日時
平成6年5月26日(木) 14:00〜17:00
開催場所
フジテレビ商品研究所
参加者
山田、広野、西山、塚田、土岐川、菅沼、竹内、中瀬、奥田、佐藤、望月

討譲内容

今回から、新たなメンバーとして、竹内様、中瀬様、奥田様の三名の方が参加して下さいました。竹内様は、現在NTTに勤務されており、入社当時から、コミュニケーションの本質といった、人間主体的な事柄について研究したいという希望をもたれていたそうです。そんな希望もあって、9年ほど前から通信サービス研究会の幹事をされているとのことです。趣味は、地図を眺めながら、世界中を旅することだそうです。中瀬様は、海洋物理が御専門で、原子力発電所の環境調査や、海洋調査など、地球環境と係わりの深い仕事に従事されていらっしゃいます。向学心旺盛な方で、働きながら、法政大学、慶応大学等で勉学に励んで来られたそうです。仕事が趣味といった感じで、カロリーは会社からもらい、ビタミンは自身の足で得ているというユニークな人生哲学を持っておられる方です。奥田様は、今回の会場を提供していただいたフジテレビ商品研究所に勤務されています。元々は、分子化学が専門で、英国のサザンプトン大学でPhDを取得されておられます。趣味というか、関心の高いことは、研究者がどの様に各人の力を発揮していくかを見ていくことだそうです。それぞれ豊かな経験をお持ちの三名の方が、人間文化研究会に新しい風を吹き込んでくれることを斯待しております。

今回も、前回に引続き選びについて、特に21世紀の遊びと題して討議した。21世紀の遊びについて考える前に、これまでに日本人が考え出した遊びにはどのようなものがあるのか考えてみた。遊びの形態としては、人間の持つ欲求と係わっていることは確かであり、古代の人々にとっての遊びは、人間の最も基本的な欲求である性的欲求との係わりのある遊びが基本にあったように思われる。月明りの元での男と女の戯れなどもひとつの遊びではなかっただろうか。これらの遊びが、動物的欲求から、人間的な欲求に昇華されると、恋文や、恋歌と結び付いたより知的な選びに変化していったように思われる。

現在のひな祭りの原型である雛遊びは、平安時代の貴族の子女の遊びだったということであるが、着せ変え遊びであり、カイヨワの言う模倣の範疇に入る遊びであろう。これ以外に、様々な祭りが遊びとなっていたのであろうが、その特徴としては、月見、鎮守祭り、お御輿等、自然を神とする神道との係わりが基本にあったように思われる。そこには、農耕主体の生活に密着した、自然との係わりが色濃く表現されているように思われる。

日本人の生み出した遊びについてもっと詳しく調べてみなければはっきりしたことは言えないが、ここで検討した中では、日本からは、球技や、オリンピックの原型である他者との競争的な遊びは数少ないのではなかろうかということである。遊びは、生活様式と密着したところから生まれてくるものであろうから、狩猟を主体として生活していた民族にとって、動物を追いかけることが生活そのものであり、大きな獲物を捕らえることが自身の力を表現する証でもあったであろう。その様な環境の中に於て、走ったり、カを比べたりする競技が生まれてきたのも当然のことであろう。これに対して、農耕民族である日本人にとっては、自然の中に生活があり、自然の変化の中に身を委ねる静的な生活リズムがそこにはあった。その様な環境の中においては、肉体主体的な遊びではなく、精神主体な遊びが生まれてきたのであろう。日本人の遊びの多くが、最終的には、型や、精神修養の一手段と化してしまうのは、単に仏教の影響と言うことだけではなく、仏教が入る以前にその様な風土を日本が持っていたのではないかと考えられる。仏教が日本に根付いたのは、仏教の香りと日本風土から生まれた日本人の霊性とがタイミングよく共鳴したことによるという禅者鈴木大拙の指摘のように、日本人の遊びにおいても、その底には、日本人の霊性が関与しているのかも知れない。

語ることも一つの遊びであろう。日本女性のコミュニケーションの典型でもある井戸端会議は、遊びそのものであるように思える。ただ、コミュニケーションの仕方には、日本と西欧との間で大きく異なっているようだ。英国での生活経験豊かな奥田さんの指摘のように、英国人はパーティーが好きで、家庭でパーティーをよく行っている。これに対して、日本人は、家庭に人を招いてパーティーをやることをあまりしない。日本人男性と結婚したフィリピン人の一人も、御主人が外で遅くまで飲んで帰ることを嘆き、なぜ日本人は、外で飲み語らうことばかりして、家庭でパーティーをしないのだろうかと不思議そうに語っていた。この辺にも、日本人に特有な精神世界が展開しているようだ。

先に検討したように、最近の大学生は、日常生活そのものが遊び化しており、遊びなのか、現実の生活なのか区別がつきにくくなってきている。同じ様なことが、仕事の中にも見られてきて、仕事が従来のようにインフラを充実するために、具体的な目標を一致団結して作り上げるといったものではなく、仕事なのか遊びなのか区別がつきにくくなってきている。この緊張感の喪失の波は、日常の生活の中にも知らず知らずのうちに押し寄せてきている。新年の何とも言えない緊張感と、すがすがしさを、近年なかなか味わえなくなってきているのもその一つであろう。この緊張感の欠乏の要因として、社会が豊かになり、欲しいものがいつでも手に入れることの出来る状況の中で、欲求を抑え、我慢するといった力が次第に低下してきていることや、論理的思考の中で、無駄を省くという考え方が、儀式を簡略化し、機能だけを重視する方向となって現れていることなどが考えられる。このような中で、情報をテーマに話し合ったときに議論されたように、プロセスの中から生まれてくる見えざる情報を、次第に切り捨ててきているように思える。ハイテクと称されるものがすべて人間にとってためになるものであるという暗黙の同意の中で、儀式と、緊張とを次第に忘れてきてしまった現代人の姿が次第に浮き上がって見えてくる。遊びの効用は、緊張した日常生活から、心の張りを緩めるための非日常牲への導きであろう。緊張感のない日常生活は、逆に遊びの楽しさを低下させているようにも思える。ウィークエンドが仕事の緊張感から心をリラックスさせる機会であったものが、家族との係わりや、遊びへたのために、ウィークデーとウィークエンドの緊張状態が逆転している例もあると言うのは、まさに現実の流れの方向を垣間見るような気がする。

我々(団塊の世代前後)が小学生の頃は、校庭において様々な遊びを行っていた。そのほとんどが、大地と係わり、木々と係わり、空間と係わっていて、五感全てを活性化させながら遊びに熱中していたように思う。そこでは、大自然と係わり、友達を通して、人間の心の世界とも係わりがあった。しかし、ファミコンに夢中な現在の子供達にとっては、相手のいない孤独な世界の中で、視覚からはいる情報のみが遊びと係わっているような状況になってきている。将来バーチャルリアリティーが遊びの中に入ってきたとしても、大地を相手とし、生身の人間を相手とした遊びに比べれば、リアリティーからは、はるかにかけ離れたものになってしまうであろう。未知なる無限な領域を秘めた世界を相手にした遊びと、人間の作った限られた枠の中で遊ぶ遊びとには、人間の感性が感知することの出来る大きな差が秘められているように思える。

現在の若者に特に見られる遊びとしてカラオケが上げられよう。それも、大人達のカラオケと異なり、お酒も飲まず、数人の友人だけで楽しんでいる。ほとんど語らうこともなく、ただ自分の気に入った曲をひたすら歌い続ける。彼らにとって、それは一つの自己表現であり、歌を通して何かを語っているのであろう。そこには、うまく歌うとか、こんな曲を知っているとか言った自己アピールがあり、そのアピールに一人酔いしれる心地よさがあるのであろう。これに対して、広野さんの体験によると、ライブコンサートの中で、歌手も聴衆も一体となって歌い踊るといった行為の中では、カラオケとは異なった喜びを感じるという。そこでは、自己アピール的なものはなく、自身の心の底から発せられるエネルギーによって、ただ感性のままに歌い踊る裸の人間がいるだけである。人間が、人生の中で作り上げてきてしまった自我の衣を脱ぎ捨て、その衣の奥に秘められた宇宙と一体となった自己に出会ったとき、人は感激するのではなかろうか。この感覚は、アフリカやインドネシアに生活する原住民が、歌と締りに酔いしれながらトランス状態に陥ってしまう感覚と相通じるものがあろう。この現状を目の当たりにした、文化人類学者川田順造氏は、作曲家武満徹氏との語らいの中で、科学技術の恩恵を全く受けないこれらの民族の方が、ひょっとしたら、科学技術の洪水の中で生きている日本人よりもはるかに幸せなのではなかろうかと述懐している。

人間が生き続けていく限り恒久にあり続けるであろうという遊びに賭事がある。これらの楽しみは、そこにお金が関与していることであり、一攫千金を夢みて心を高鳴らせる迫力がある。先に検討したように、遊びには、どこかしら創造的なものが関与してきているが、時事の多くも創造的なものと、偶然的なものとがミックスされている。麻雀にしても、パチンコにしても、競輪競馬にしても、そこには程度の差はあれ、自身の知恵と偶然との戦いがある。そんなふうに考えてくると、同じ賭事でも、偶然に100%依存するさいころ賭博は、最もつまらない遊びのように思えてくる。しかし、そこにも、人間の意識上では感知できない超能力的な知恵が介在しているようにも想像できる。その場の中で、自身に幸せをもたらす目を祈るような気持ちで待ちかまえるその雰囲気は、采を撮るものと、賭事をする者との間に共通した一つの場を生み出し、その場を通して、賭事をする人の心が目の出方に影響しているようにも思える。結果の出る前の緊張感は、結果はともかくとして、張りつめた緊張の中で、一つの場を共有している快さを暗黙の内に感じさせているのではなかろうか。そこには、先のトランス状態にも似た心の世界が展開しているようにも思える。

このように遊びを見てくると、遊びには、偶然が主体となる受動的な遊びと、知恵が主体となる能動的な遊びがありそうだ。前者の代表が賭事であり、後者の代表が知恵を基盤とする文化的芸術的な遊びであろう。だれしもが何の努力もなく簡単に入っていける遊びが、受動的な遊びであり、カイヨワの分析する偶然、目まいがこれに属そう。これに対して、スポーツや芸術などの遊びは、遊ぶ者の努力が必要であり、能動的な遊びと言えよう。これらの遊びは、カイヨワの指摘する競争や模倣に属そうか。

さて、これらの検討を元に21世紀の遊びを考えてみるとき、基本として、ハイテクを基盤に、通信ネットワークとコンピュータとの係わりで生まれてくる遊びが大きなウェイトを持ってくることは予想に難くない。マルチメディア端末と通信ネットワークを用いた遊びは、今まで行われてきた様々な遊びをアンダーグラウンドで成長せしめる可能性と危険性とを秘めているように思われる。遊びがどのような形に変化しようが、願わくば、受動的な遊びではなく、能動的な遊びが広まって欲しいと思うのは、人間を知らない者の独り言になってしまうのだろうか。

次回は、生と性と題して、6月24日(金)〜25日(土)1泊2日の予定で行うこととした。開催の詳細については別紙にて案内致しました。

コメント:0

コメントフォーム
情報を記憶する

ホーム > 1994年レポート > 第31回 「21世紀の遊び」

このサイトについて
月別アーカイブ
最近の投稿記事
最近のコメント

Page Top