- 2005-04-08 (金) 0:57
- 1995年レポート
- 開催日時
- 平成7年3月13日(月) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 多田、高岡、広野、塚田、竹内、田中、佐藤、望月
討議内容
今回も前回に引続き、仮想な世界と現実な世界について討議した。前回の議論で、現実な世界というのはどこかで生命と係わっているということであったが、その辺のところを、戦争体験者の田中様より意見が出された。爆撃される前は、どんなに逃げろといっても自分から逃げようとはしなかった人達も、一度爆撃を身近に体験すると、誰が何も言わなくても、逃げ足が早くなる。天災も同じことで、今回の阪神大震災においても、関西の人達にとっては、地震は日本の中で頻繁に起こっていたが、自分と係わることであるなどほとんどの人が思っていなかったと地震を直接経験された佐藤様は感想を述べている。自身の生命と直接係わるまで、他人事のように考えているこの気質は日本人特有なものかも知れない。そして、生命意識が希薄になっている現在、日本人は、仮想の世界の中で生きている民族のように思える。日々、生命の危機に瀕しているアジアの子供達に、将来の夢について尋ねたところ、生きていたいという答えが返ってきたという。日々の命を当り前と考えている日本人とは、雲泥の差がある。
物事が本気で行われるのは、多くの場合、それを実行する人が、何等かな形で生命活動を意識していることによるように思える。明治維新や、それ以降第二次世界大戦辺りまでの時代に生きた政治家、例えば、長州、土佐、薩摩といった辺境の地に生きた人達にとっては、外敵から身を守ることの意識が高まり、対外的な係わりに対して積極的に行動が起こせたのではないだろうか。それ以降の政治家も、自身の生命との係わりの中で、本気で物事に対処していけたのだと思う。これに対して、現在の政治家の多くは、標準的日本人と同じように、生命に対する意識が希薄になり、物事を本気で考えられなくなっているのではないだろうか。知識として政策は語れても、自身の生命と共鳴する政策はほとんどの政治家は持ち得ていないように思える。これらの背景には、物で満ち溢れ、生命が当り前に与えられているという錯覚があるのではないだろうか。日本の宗教が華開いた鎌倉時代、町にはあちこちに屍が転がり、地震や火事といった災難が絶えず起きていたことが、その時代の書物を読むと分かる。日常生活が自身の死を意識させていた時代、生と死について多くの人が悩み、救いの道として、宗教に身を委ねたのではないだろうか。生命活動から離れた意識の中で、知識的に生きている多くの日本人は、まさに仮想の世界の中で生きていると言えよう。
日本人は、他人を悪人だと思うことを嫌い、どこか互いに信じ合いながら生きているが、諸外国の民族は、むしろ反対で、自身の身の安全に対して、日本人以上に気を配っている。他人を認めることはしても、絶えず悪がそこから生まれてくるということを本能的に察しているのかも知れない。一般生活者が銃を持つアメリカ社会は、自身の身は自分で守るという意識の現れであり、銃社会を批判する日本人のこころの根底には、他人を悪人と思うことなかれといった儒教的な精神が流れているように思える。そして、それは、自分の命は誰かが守ってくれているはずだという甘えが潜んでいるように思える。チベットを旅行中、入国許可書を持たずに入国してしまった日本の若者が、牢獄に監禁されている様子を見た文化人類学者・中根千枝氏は、他人と自分とをはっきりと区別し、ルール化した社会の中で生きるアジア民族と、曖昧な日本人との感覚の差異をそこにみる思いがしたと語っている。
自身の生命に気を配ることが日常生活の中で行われているところに現実の世界がある。それは、自身の無意識の世界との係わりでもある。私達には、意識できる世界のほかに、自身の生命を育んでいる無意識の世界がある。その無意識の世界は、生命であり、宗教と密接な係わりを持っている。日本人以外の多くの民族が、宗教と係わっている事実は、それだけ、無意識の世界、すなわち生命活動と係わりを持っているということである。多くの日本人が、無宗教だと言うその根底には、宗教と密接な係わりを持つ無意識の世界に明りを灯そうとしていないことであり、それは、生命を意識することが希薄になっていることでもある。
現在の日本人は、生命活動から遠ざかってしまっているが、日本文化の根底には、生命との係わりが色濃くでている。それは、茶道にしても、俳句にしても、武道にしても、元々は、死を見つめる中から、生命の永遠性を覚知した者の知恵から生まれてきたものである。そして、その知恵から生まれたものが、永遠の生命を帯び、今でも多くの人の心と共鳴するのであろう。仮想な世界から現実の世界への動きは、無宗教から、宗教への変化と相対応するようにも思える。
本を読んで涙を流し、パソコンの中に展開される世界に喜怒哀楽するその精神世界は、イメジネーションによる現実の世界なのかも知れない。生命との係わりの中に現実な世界があるということとは別な次元であるかも知れないが、イマジネーションの中にもやはり現実な世界があるように思える。そして、イマジネーションこそ実は我々の現実な世界を作っているのかも知れない。人と人とのコミュニケーションにしても、語り合うその中から人々は喜び悲しんでいる。その喜びや悲しみが生まれてくる源はといえば、自身の心であり、その心を生み出しているのは、コミュニケーションを適してのイマジネーションなのではなかろうか。気功にしても、イマジネーションによって新たな力が生まれてくるらしい。また、ガン治療においても、ガンそのものに名前をつけ、そのガンと語り合うというイマジネーションによって、ガン細胞が次第になくなってくることがあるらしい。スポーツにしても、論理的な技術指導から、イメージトレーニングによる練習が功をそうすることが実証されている。イマジネーションの奥底には、人間が持つ生命とのコミュニケーションツールが隠されているのかも知れない。
仕事においても虚業と実業と表現されているように、そこには仮想な世界と、現実な世界がありそうだ。仮想なお金を動かすことによって発展してきたかのように見えたバブル社会は、バブルの崩壊と共に、現実な世界を浮き上がらせてきている。企業にしても、働く個人にしても、バブルの崩壊にともなって、初めて目を覚まされ、現実の世界が、自身の知識に頼る生の中にあるのではなく、知恵に則って生きることの中にあることを感じ始めているのではないだろうか。自身の仕事が実業であるか、虚業であるかは、もちろんそれが、経済的な価値を持つことも重要なことではあるが、その根底には、人々を感激させることの出来る何かが、仕事を通して語られるものであるならば、それは職種に係わらず、現実な世界の中で仕事に係わっているように思える。そして、人を感激させることの出来るものは、それが思いやりといった身近なものであろうと、科学技術製品であろうと、それらが我々人間の中に宿る生命と係わっているからなのであろう。
現在を生きる多くの人達は、物の中に人類の進化を見、そこに現実な世界を見てきた。しかし、人間の持つ能力の中には、物では直接表現でさないような文化的な側面も持っている。これら二つの価値を、文明と文化と表現するならば、物を主体にした産業革命以降の人類の歩みは、新たな文明を生み出すことにカを注ぎ、そこに人類の進化を見てきたように思う。しかし、物に溢れた現在の日本の姿は、日本人に、文明の中に、もはや人類の進化はなく、文化の中に進化があることを無意識ながら感じさせ始めているのではないだろうか。日本を初めて訪れたジンバブエの若者が、日本には未来がないと、2カ月間の滞在で得た印象を語っていたが、その未来のなさは、物質文明の飽和を身を持って感じ、その中で生きる若者達の悪い意味でのアメリカ化に不安を抱いたからであると言う。しかし、その一方で、現在の若者達が、物ではなく、精神的なもの、文化的なものに価値を持って生き始めていることも確かである。人間にとっては、物も大切であるし、文化的なものも生きる糧としてまた重要な要素である。この二つの要素は、人類の進化の方向を目指して、バランスをとりながら発展していくもののように思える。物質的世界が現実の世界として映っていた時代から、精神的な事柄が現実な世界として感じられる時代がもうすぐそこまで来ているように思える。
現実の世界と仮想の世界は今回をもって終わることにし、次回からは「愛」をテーマに議論することにした。
次回の開催日を4月25(火)とした。
- 新しい記事: 第38回 「愛」
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