- 2005-04-08 (金) 0:58
- 1995年レポート
- 開催日時
- 平成7年11月30日(木) 14:00〜17:00
- 開催場所
- KDD目黒研究所
- 参加者
- 広野、土岐川、尾崎、長谷川、望月
討議内容
今回から新たなメンバーとして、長谷川里江様が参加して下さいました。長谷川様は、(株)乃村工藝社に勤務されていまして、建築デザインから、喫茶店の名前の提案まで、人が集まるところに関する様々な事柄についてコーディネイトされているとのことです。趣味は映画鑑賞や読書の他、お住まいが京都ということもあって、京の町を散策するという優雅な趣味を持っておられます。文化的な風土の中で培われた豊かな感性で、この会に新しい風を吹き込んでくれるものと期待しています。
今回も前回に引続き「教育」をテーマで討議を行った。私達が、他者から教わるものの中には、例えば1+1=2といった基本的なルールや、スポーツの基本動作といった、技術的なものと、新しい問題を解いたり、新しい技術を身につけたりといったような解説書には載せることの出来ない創造的な技能と表現できるものとがある。前者は、教科書や指導書となって表現することが出来き、万人に共通に教えることが出来るが、後者の技能は、文字や言葉だけでは伝えることの出来ないものである。
将棋の名人のところに弟子入りした少年が、何年間かの奉公の中で、廊下や庭の掃除ばかりさせられて、一度たりとも将棋そのものについて教わったことはないけれども、そこでの生活が、無意識のうちに、先生の感性的なものを吸収していて、その後の将棋に見えざる力をもたらしたそうだ。技術は簡単に教えることはできても、技能は、言葉ではなく、空気というか場の力によって伝えられるもののように思える。
ピアノのショパンコンクールは、5年に一度ショパンの生地ポーランドで開催されるが、今年も多くの日本人が、このコンクールに参加した。その人達の中には、ショパンの曲を身体で感じるために、何年も前からポーランドに住んでいた人もいるという。曲そのものは、楽譜として万人が共有出来るが、人々を感激させることの出来る演奏になると、その技能は、見えざる情報として、姿を消してしまう。世界を代表する日本人ピアニストが、日本のピアノ教育は、コンクールに入賞することがあたかも最終ゴールのように思い込んでしまい、技術的な事柄にのみ力を入れてしまっていると批判していたが、ピアノを生み出す風土になかった日本風土が、知らず知らずのうちに、技術だけを追いかけるような働きとなってしまっているのかも知れない。
これらのことを考えると、技能の教育には、教える者と教えられる者とが共有する場が必要であり、教える者の持つ感性的な精神世界が、場を媒介として、教わる者の心の世界に伝えられているように思える。そして、この場は、単に教える者と教わる者とが共にいる共時的な場だけではなく、その民族の感性を育んできた風土とも大きく係わっているようだ。
私達日本人は、平等な教育を目指し、万人が共有できる技術に関する教育に力を入れてきた。その結果として、日本人の平均学歴は高くなり、集団で開発するものは、世界中で最も早く良いものを作ることの出来る技術大国、経済大国に成長してきた。しかし、世の中が、集団で開発するインフラ的事業から、個人個人の創造性に根ざした新しい社会に向かって進み始めている現在にあって、今までの画一的な教育が大きな問題になってきているように思える。これからの教育は、万人に平等に教えることの出来たインフラ的教育から、個人個人の創造性を育てることの出来る新しい教育方法が求められている。
では、日本人の創造性は、他の民族に比較して劣っているといわれているが、それは教育が問題なのか、それとも、日本民族としての社会的特性が創造性を高めることを阻害しているのであろうか。
例えばアメリカの教育を見てみると、様々な民族と融合して生活しているアメリカ人にとって、アメリカ市民であることは重要な意味があり、それだけに、教育そのものが、現実の社会問題と密接な係わりの中で行われているという。アメリカ人に政治や経済に関してインタビューする光景をTVで時々目にするが、一人一人がはっきりとした意見を持って答えているという印象を持つ。これに対して、日本人の場合には、社会問題と、現実の生活とがどこかしら切り離されていて、インタビューに対しても、個人の意見というよりも、当り障りのない一般論が語られているように思える。イギリスでの経験であるが、イギリスの教科書は、絵が多く、それも絵を見ただけでイメージ的に理解できる形になっている。教科書を作ることも大きな教育の一つであるが、分かりやすい教科書を作ることが出来るということは、その作成者が、本質をよく理解しているということである。西欧に於て、自然科学は、ギリシア哲学に始まる長い伝統を持った学問である。天動説から地動説へのコペルニクス的転回の議論は、単なる自然科学としてのものだけではなく、神との係わりに於て、西欧の人達にとっては、生活そのものであった。そこにも、学問と生活とが密接な係わりを持って存在していて、学問が、食べ物や水と同じように、生きて行くための糧として働いている。それが故に、そこで行われる教育は、地に足のついた現実のものとして子供達の心の世界に響いて行っている様に思える。自然は科学するものではなく、感じるものであるとして生きてきた日本人にとって、西欧から生まれてきた学問の多くが、生活と密着したものではなく、教養としての価値しか持っていなかったのであろうし、現在の教育がまだこの感覚を引きずっているように思える。一般教養としての教育を受けてきた人達に、生活に密着した教育が出来ることを期待するのはかなり難しい問題のような気がする。これからの教育をより生活に密着した、創造性豊かなものにして行くためには、教育過程を経た大学卒業者だけで構成されている教育界に、現実の社会を経験した社会人を多く取り入れることが必要であろう。
我々がよく経験することであるが、感覚的には分かった気になった事を、言葉によって第三者に説明しようとしたとき、思うように説明できなくなってしまう。これに似た感覚を日本人は本質的に持っているように思える。これまで、日本人は、互いにイメージの世界で分かり合った気になって行動し、それが生活として成り立っていた。同じ風土の中で生活してきた日本民族にとって、語らずとも理解し合える心の世界を共有していたのである。それが、現在のようなボーダレス時代になり、生活して行くために、異民族とのコミュニケーションが不可欠になってきている時代に於て、日本人にとって、相手に理解してもらえるように語ることの不得意さは、大きなハンディーとなってきている。そして、イメージを論理化して表現することに慣れていない日本人にとって、創造性を高めるための教育方法として、豊かなイメージを維持したまま、それを論理化して、他者に分かりやすく表現していくことを学ぶことがどうしても必要となってきている。そして、その論理化する営みの中から、創造性は育まれ、高まって行くように思える。
日本人の持つ豊かなイメージの世界は、自然や社会の様々な現象を大きな視野から捉えることができる。その有用性を、多くの欧米人は気が付き始めてきている。日本人にとって、創造性豊かな社会を築いて行くためには、論理性から非論理性を求める欧米人の動きとは逆に、日本人の中に生来秘められている豊かなイメージの世界を維持したまま、論理化する能力を開発して行くことが、きわめて重要になってきているようだ。
今回をもって教育に関する議論はひとまず終え、次回は、1996年1月26日(金)新しい時代を迎え、人間文化研究会にふさわしい不易なテーマに関して、自由に意見を交わしてみたいと思います。
本年は、今回を持って終了しますが、今年を振り返ってみますと、いくつかの大きな社会問題が発生し、その多くは、人間の心に係わる問題が事件や事故を起こしてきているように思われます。この会での討議は、人間の心に焦点を当て、その心の不易な部分をできるだけ議論するよう努めて参りましたが、過去5年の中で行われた議論を振り返ってみますと、今起きている社会現象を、ある部分では予期した議論になっていたようにも思われます。今年行った討議テーマは、仮想な世界と現実な世界、愛、日本人とは、教育についてでありましたが、そこでの議論の中にも、未来への警鐘と夢とが投げかけられている様に思います。皆様のおかげで、様々な角度から議論が行われ、実りある研究会であったと思っております。本当に有難うございました。来年も、益々豊かな情報をクリエイトするためにも皆様の積極的なご参加を期待しております。新しい年を迎えるにあたり、皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
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