- 2018-12-05 (水) 0:16
- 2018年レポート
- 開催日時
- 平成30年11月30日(金) 14:00~17:00
- 討議テーマ
- 「美しさ」について
- 開催場所
- 東京ウィメンズプラザ
- 参加者
- 下山、望月
討議内容
今回は、美しさについて議論した。美しい、美、美しさ、基本的には、同じような意味であろうが、美しいや美といった言葉は、どちらかというと表層的な意味合いが強いのに対して、美しさという言葉には、美を生み出す源という意味合いが込められているように思える。そのことを念頭において、まずは、美しいと感じるものにどんなものがあるのかを洗い出してみた。
まずはじめに浮かんでくるのは、美人で代表される人の顔形。それから、自然の美しさなど視覚から入る対象物に対しての美しさである。また美しい声(美声)とか、美しい響きとか、聴覚との係わりで美しさを感じているものもある。さらに、美味しいと表現するように、美が味とかかわって用いられることもある。香りに対しても時として美しいという言葉が用いられることもある。このように、五感とかかわって美しさを感じ取っていることが多い。
また、視覚から入る刺激でも、美人や自然の景色といったものだけではなく、人間の体の動きに対して美しいと感じることがある。大谷翔平選手のホームランを打った時のフォームは美しく見えるし、羽生選手の四回転ジャンプも美しく見える。多くのスポーツで、ある域に到達した人のフォームは素人が見ても美しく見えてくる。
こうした美しさを奇麗と表現することもある。デザイナーである下山さんは、奇麗という言葉には大きく分けて三つの異なるジャンルがあるという。一つは、汚れを取り除くことによって奇麗になるもので、クリーンと呼ばれているものである。二つ目は、ビューティフルと表現されるもので、形が奇麗ということで、美人もこの範疇に入るであろうし、車のデザインや彫刻などもこの範疇に入ってくる。三つ目の奇麗は、織物の美しさや風景の美しさというようなパターンの美しさとしてとらえられるものでゴージャスといわれているものである。
こうした奇麗さの源は、それぞれの奇麗さで別々なものなのだろうか、それとも、根源的には、同じものなのだろうか。そのことをよりはっきりと捉えるために、先ずクリーンについて考えて見ることにした。クリーンが意味する奇麗さは、ほこりを取り除いたり、汚れを洗い落したりした時、すなわち何もなくなった時に蘇ってくる美しさである。これは、五感とかかわって感じられるものだけではなく、クリーンが純粋と訳されているように、純粋な心という目に見えないものともかかわってくる。では、その純粋な心とはいったい何が取り除かれたときの心の状態なのだろうか。そのことをよりはっきりとつかむために、純粋な心とは反対の汚れた心、醜い心とは何かについて考えてみた。
私たちが日常生活で感じる醜い心というのは、人をだましたり、偽ったり、嫉妬であったり、私利私欲であったり、憎悪や恨みといった心であろう。ということは、そうした心の汚れがなくなった時、それは純粋な心、美しい心ということになってくる。でも、そうした汚れのない子供たちの心は確かに純粋な心であるかもしれないが、美しい心とは子供の心の有り様に対して表現することはない。やはり、美しいという心は、子供のような純粋な心と同時に何か大人でなければ得られない心が抱かれた心のように思える。そうすると、そこには、醜い心の中にあった憎悪や恨みといったものとは反対の愛という心ではないかと思えてくる。愛が豊かな人ほど、美しい心と感じるのではないだろうか。こうして考えてくると、美しさの一つの源に愛というものがあることが分かってくる。
次にゴージャスやビューティフルと表現されたパターンや形と係わった奇麗さというのは、何に由来するのだろうか。美人を美人と感じたり、着物のパターンの美しさを美しいと感じたりするのは、いったい何によっているのだろうか。そうした形やパターンを美しく感じる源には、すでに人間の心の内に、ある基準となる物差しが秘められているように思える。というのは、アインシュタインの導きだした有名な数式 E=mc2 は最も美しい式といわれているが、それは、物理の世界の本質を表していて、その式とかかわった何かがすでに人間の心の内に秘められていると考えられるからである。数学者であった岡潔は、数学は情動から生まれるといっているが、目に見える世界に表現された数式は、人間の心の中ではあるパターンのようなものとしてすでに秘められているように思える。そして、それは、アインシュタインの式に見られるように、調和と秩序を秘めたものということではないだろうか。この数式と同じように、ゴージャスやビューティフルと表現されたパターンや形と係わった奇麗さの源には、調和と秩序といった物指しが控えているように思える。
以上のように奇麗さの源として浮かび上がってきた愛、調和、秩序は、美しさの元型と考えられるが、その元型を人間が抱いているというのは、それが生命を維持していく上で大切な判断基準と深く係わっているからなのではないだろうか。クジャクの羽の美しさに代表されるように、子孫を残すという生命の営みの中に、美しさというのが何らかの働きをしているように、美しいものにひかれるというのは、それが生命を維持していく上で大切なものであるからであろう。こうして考えてくると、美しさの要素としての愛、調和、秩序というのは、まさに生命と直結したものであり、美しさというのは現象の世界に表現された生命の姿そのものなのではないだろうか。
次回の討議を平成31年1月25日(金)とした。 以 上
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